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2023-10-22

パレスチナ問題についてのルーテル世界連盟の声明

ルーテル世界連盟は、ガザにおけるハマスとイスラエルとの軍事的衝突について以下のような声明を公にしています。


ルーテル世界連盟の声明


不十分なものですし、この文体が相応しいかと悩むところもありますが、 とりあえず翻訳してみましたので、遅ればせながら、ここに記しておきたいと思います。


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1011日に発表された声明の中で、LWFはイスラエルとパレスチナの民間人に対する全ての当事者によるあらゆる攻撃を非難し、民間人と民間インフラが標的にされていることについて重大な懸念を表明し、人質の解放を要求し、国際人道法を遵守するよう全ての当事者に要請しました。



2023年10月11日

 

  ルーテル世界連盟の声明

 

ルーテル世界連盟(LWF)は、イスラエルとパレスチナにおける継続的な暴力の激化、特に民間人が標的となっていることに重大な懸念を抱いています。 LWFは、すべての当事者による民間人に対するあらゆる攻撃を明確に非難します。

 

LWFはハマスによるイスラエル国民に対する残忍な攻撃を強く非難します。 人質を取ることは容認されず、即時解放を求めます。

 

LWFはイスラエル軍に対し、国際人道法に従って行動し、交戦当事者ではない民間人の保護を優先するよう求めます。 一方の当事者による国際人道法違反が、他方の当事者による別の違反を正当化するものではありません。

 

ジュネーブ条約に定められた戦争規則は守られなければなりません。民間人を標的にすることは決して正当化されず、学校や病院などの民間インフラへの攻撃は容認することはできません。

 

ガザの人道状況は急速に悪化しています。 すでに数十万人が避難し、医療施設を含む基本的なインフラは破壊され、住民は逃げる場所がなくなっています。 避難を希望する民間人には安全な通行が保証されなければならず、援助が国民に届くよう人道回廊は遅滞なく開設されなければなりません。

 

LWFはイスラエルとパレスチナの両当局、そして国際社会に対し、ガザに閉じ込められ無力なパレスチナ民間人に緊急の救命支援を提供するため、国連や地域内の他の人道支援団体のアクセスを確保するよう要請します。

 

LWFは、この暴力の被害を受けたすべての人、悲しんでいる人々、恐怖の中で将来に希望を持たずに暮らしている人々とともにいます。

 

聖地の人々には平和が与えられるべきですが、それはイスラエル人とパレスチナ人の必要を満たし、聖地とその地域に長期的な安定をもたらす交渉によってのみ達成されるものなのです。

2019-05-07

絵本「わたしたちだけのときは」

カナダの先住民族に対する同化政策のもと、クリー語を話した人々がことばも装いも自分たちが自分たちである当たり前のことが奪われた。その中で子どもたちがどのようにして自らのアイデンティティ、誇りや尊厳を守ってきたのか。この小さな絵本は、歴史の中に隠されながらも自らが自らであることを生きる権利が奪われていく辛さと、その中で生きることの本当の喜びを守るべきことを教えている。

         デイヴィッド・アレキサンダー・ロバートソン(), ジュリー・フレット(イラスト)

世界のいたるところ、そしておそらく歴史上いつも繰り返されてきたことかもしれない。支配被支配の構造の中で苦しみを余儀なくされてきた人々がある。
性別、生まれ、肌の色、部族・民族、言葉・文化・宗教の違い。障害や病気、貧富の差、教育の違い。そうしたものが、差別と抑圧の原因となり、生きることの喜びと尊厳を奪われることが起こるのだ。
力がないから仕方がない、と、そういってしまえば、人間が本当に人間として「共に生きる」価値を失う。数の論理で多数を占めるものが世界のあり方を決めるのは、決して平等でもないし、民主主義でもない。難しいことかもしれない。けれども、諦めずに求めていくべきことがある。守るべきものがある。



2019-02-11

映画「ナディアの誓い」を観て

久しぶりに、本当に久しぶりに劇場で映画をみた。
心を捉える、ドキュメンタリーだった。
「ナディアの誓い」


 哀しみの果てを生きる そんな言葉が体を締め付けてくるような映画だった
ノーベル平和賞の受賞で、この女性ナディアの名前、ISによる虐殺と破壊、そして女性に対する性支配からのサバイバーでその現実を訴えてきた女性であることは知っていた?かもしれないが、やはり恥ずかしいことに何も知らなかったのだ。何もわからないままだったのだ。そして、そういうことなんだということが、ただただ、悲しいとその哀しみを深めていったのが、この映画を観た後に残っている私の思いだ。

 


 ナディアの哀しみの深みが、心を捉えている。それがこの映画の力だと言って良いだろうか。そして、こうした哀しみを生み出してきた私たち人間の恐ろしさ。
 2014年8月3日。イラク北部の小さな村に生きていたヤジディ教を信じていた少数民族が、ISISによって襲われた。暴力の支配。戦争とかテロといえば、何か政治的な大きな力を思うが、いじめも、ハラスメントも虐待も、DVも、みんな根っこは同じなのだ。私たち自身の中にそうした黒い力が渦巻いている。人のいのちも尊厳も奪い取って生きていく。そんな人間の残酷さに震撼としながら、このような哀しみの普遍性に気づかされる。そして、また、その哀しみを繰り返してはならないと、私たちは思うのだ。
 そう思う中で、改めてそうした思いが現実の世界を変えることの遥かなる遠さに押しつぶされそうになる。それでもなお立ち続けることの尊さ。ナディアがあの日まで将来美容師になる夢を描いて生きていた本来のナディアであることを取り戻すために、今、その証言者として生き続けるナディアとして生かされていく現実がある。そして、その本来の「ナディア」と呼ばれるものは決して戻らないという現実。その二重の現実を、それでも、希望を掲げて生き抜くのは、彼女がもはや、彼女自身ではなく、あのとき、生活を奪われ、家族を奪われ、尊厳を奪われ、自由を奪われ、命を奪われた大勢の声なきものたちの「声」として生きることになったからに他ならない。その「声」として生きることが、彼女の肩に乗っているのだ。「私は誰なのだろう」彼女はきっとこの現実を生きながら、「ナディア」である自分を新しい問いの中に受け止めていかなければならない。彼女は彼女でなくなるようにしながら、彼女自身を生きざるをない。何重にも悲しみを重ねて生きるのだ。
 だから、深い深い悲しみが、希望であるというアイロニーがここにある。

  

 ナディアは 彼女の深い心の傷を癒すためのカウンセリングを断っている。それは、同胞が皆同じ苦しみにあったのに、自分だけがカウンセリングを受けて楽になることはできないということだった。自分があの苦しみの只中で共にある同胞から離れることできなかったのだ。それが彼女の本心だろう。
 彼女は、もともと活動家であることは望んでいない。彼女はすでに失われてしまったのだが、あの地で生きた家族とともにあること、そこに生きた自分を抱きかかえていたのだ。その自分を取り戻したい。あの場所を取り戻したい。母に、高校の卒業証書を見て欲しかった、その思いを抱えていた。それだけだ。彼女はただ、自分が経験したことを話さないではいられなかったのだ。その証言が、ただそれだけが自分たちの家族の証なのだ。自分たちがあの地で生きた証なのだから。
しかし、そういう自分であろうすればするほど、彼女が生きることになるのは、活動家である自分なのだ。彼女が証言するのは、彼女の声によって、現実の中に正義をもたらして欲しいというただその思いなのだが、その思いはもはやその声を生きることによってのみ形を持ち、現実となると、示されるのだ。
 難民となってドイツに逃れていたが、そこで難民として生きることの苦しみは、なんと不条理なものだろう。なぜ、取り戻せない。
その不条理への悲痛な叫びを、声として世界に届けたい。救いを求めていたのだ。

 ところが、その願いは簡単にはもちろん叶えられないのだ。時間がかかる。このフィルムは具体的に、一つの歩みを記録する。ナディアが、国連総会の開会のスピーチをするということだ。それは世界の注目を集める。そうすれば、世界は、あのヤジディの世界に正義をもたらさねばと必ず連帯してくれるだろう。そうなれば、世界を変えることになる。
 そうかもしれない。しかし、その道ははるかに長い。
しかも、その自分の願いは、他の多くの願いの中の一つに過ぎないという現実が切実な彼女の思いを引き裂いていく。相対化されていく。たった一つの彼女の願いは、多くの中の一つなのだ。しかし、それでも、そのたった一つであることをわかってもらえるように働きかけていかなければ、「声」であることの意味がなくなるのだ。
 自分は、ここで、自分をしっかりと認めてもらわなければならない。そのためには世界中でこのことを伝える。しかし、メディアで求められるのは、美しい女性が悲惨な性奴隷とされたというそのセンセーショナルな出来事であって、どうしたら、そういう現実を変えられるのか、ということではないということにも気がつかされていく。
 そして、その事実を語ることは、なんと彼女にとっては屈辱の経験をフラッシュバックさせるものなのだ。そうして、あの屈辱はいつまでも彼女の中に繰り返される屈辱なのだ。尊厳を取り戻すための、声であり続けようとすることで、彼女は屈辱の中に立たねばならないという矛盾。

 結局、多くの人に共感を得ることができても、そのときに彼女の心に残るのは、やはり誰にもわかってはもらえないのだという深い悲しみでしかないのではなかったか。あのインタビュワーは、あのセレブリティは、どんなにしても第三者でしかないし、私の哀しみの外に居続ける。それだから、また支援しようという。支援できるのは、この哀しみの外にいるものだからなのだ。もちろん、その優しさに偽りはないだろう。そして、その連帯に、共感に感謝する。そうなのだ。そうでありながら、そこにある深い断裂を、彼女は知って行かざるを得ない。
 彼女が安心できるのは、彼女の同胞の哀しみに出会うときだ。
 一人の少年の叫ぶ歌声だ。その涙を流せる時だけが、彼女の本当の居場所なのだ。



 けれど、彼女は、それでも、その同胞たちの声とならねばならない。それは、同胞たちには、自分たちの境遇を救う、たった一つの希望なのだから。
 彼女は、その思いを受け止めている。受け止めざるを得ない。
 彼女に求められているものは、一体どれほど過酷な歩みなのだろうか。そこに起こっていることは、彼女を繰り返し、屈辱の中に突き落とすことでもある。それが、実りをもたらすことを信じていくしかない。
 しかし、その歩みが確かになれば、なるほど、その歩みが決して思っているような、望んでいるような世界の変革にはすぐには届かないという現実だけが残されることにもなる。すでにふるさとは荒れ果てた地となり、人々の命は帰らないのだ。
 この故郷にすぐには人は住むことができない。変えることはできない。

 故郷に帰ることができない彼らは、難民となって、どうやって生き得るのか。そのどれだけの人たちを世界は受け入れるのだろうか。
 果てしない、苦しみがより深く現実となって見えてくる。



 それでも。それでも、諦めてはならないのだ。彼女は、やはりそれでも「声」であり続ける。果てしなく、遠いことであっても、この道を歩んで、正義を求める。
その悲哀を生き抜く力を、彼女はどこから得るのだろう。

 逆に言えば、私たちは、彼女のその力も、また苦しみをも本当にはわかることはない。しかし、それでも、この映画にも力があり、私たちがそこから得るものに希望を紡ぐとすれば、私たちは、私たち自身の自らの深い悲しみを通して、痛みを通してのみ、彼女たちとともに生き得ることを見いだせるかどうかではないか。

 彼女が悲哀の中、断絶の中でも、それでもつかんでいる仲間の手があるのだ。それは、そういう哀しみの只中の連帯だろう。そのわずかな、苦しみの中の希望が、彼女を生かす力なのだと・・・そう思う。

 悲しみを生きる意味とその力を人間であるということの哀しみの只中に探している。まだ、探しているのだ。その答えを見出せたのか。私はそれを掴んでいるのか。そう問いかけながら、この映画を繰り返し、心に映している。

2018-06-27

沖縄「慰霊の日」に

6・23 沖縄 慰霊の日

今年(2018年)、この記念式に沖縄に住む一人の中学生の作った詩が、本人によって朗読された。
この記念日に、私たちが何を心にとめるのかということを、これほどまでにすなおに表現された感性に出会って、本当に嬉しかったし、心打たれた。

自分の「今・ここ」で生きる、その当たり前が、どんなに尊いか。その当たり前を本当に当たり前とすることの責任は、誰のものでもなく、私たち自身が何を選び取り、生きていくのかということにかかっている。その当たり前を感じる感性。それを生きる歓び、あるいは切なさ。悲しみも辛さもしっかりと感じること。そして、その日常の中に何が隠されているのか、深く視る知性。社会と歴史の痛みは、人間の生活に刻まれたものだ。それをしっかりと見つめる勇気。その上で、自分の「今・ここ」を明日の世界へとつなげていく決意。

こういう若い方がいる。そう思うだけで、私たちが大人として、「今・ここ」をどのようなものとして残そうとするのか。その責任を重く感じる。
憲法の問題、教育の責任、原発の課題。今、何を論じ、何を決めて行こうというのか。
私たちは、何を決意するのか。

https://twitter.com/motomotom141/status/1011225109346914304

全文を、ここに記録しておきたい。

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平和の詩「生きる」    沖縄県浦添市立港川中学校 3年 相良倫子

私は、生きている。
マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、
心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、
草の匂いを鼻孔に感じ、
遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。
 
私は今、生きている。
 
私の生きるこの島は、
何と美しい島だろう。
青く輝く海、
岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、
山羊の嘶き、
小川のせせらぎ、
畑に続く小道、
萌え出づる山の緑、
優しい三線の響き、
照りつける太陽の光。
 
私はなんと美しい島に、
生まれ育ったのだろう。
 
ありったけの私の感覚器で、感受性で、
島を感じる。心がじわりと熱くなる。
 
私はこの瞬間を、生きている。
 
この瞬間の素晴らしさが
この瞬間の愛おしさが
今と言う安らぎとなり
私の中に広がりゆく。
 
たまらなく込み上げるこの気持ちを
どう表現しよう。
大切な今よ
かけがえのない今よ
私の生きる、この今よ。
 
七十三年前、
私の愛する島が、死の島と化したあの日。
小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。
優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。
青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。
草の匂いは死臭で濁り、
光り輝いていた海の水面は、
戦艦で埋め尽くされた。
火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、
燃えつくされた民家、火薬の匂い。
着弾に揺れる大地。血に染まった海。
魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。
阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。
 
みんな、生きていたのだ。
私と何も変わらない、
懸命に生きる命だったのだ。
彼らの人生を、それぞれの未来を。
疑うことなく、思い描いていたんだ。
家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。
仕事があった。生きがいがあった。
日々の小さな幸せを喜んだ。手をとり合って生きてきた、私と同じ、人間だった。
それなのに。
壊されて、奪われた。
生きた時代が違う。ただ、それだけで。
無辜の命を。あたり前に生きていた、あの日々を。
 
摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。
悲しくて、忘れることのできない、この島の全て。
私は手を強く握り、誓う。
奪われた命に想いを馳せて、
心から、誓う。
 
私が生きている限り、
こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。
もう二度と過去を未来にしないこと。
全ての人間が、国境を越え、人種を越え、宗教を越え、あらゆる利害を越えて、平和である世界を目指すこと。
生きる事、命を大切にできることを、
誰からも侵されない世界を創ること。
平和を創造する努力を、厭わないことを。
 
あなたも、感じるだろう。
この島の美しさを。
あなたも、知っているだろう。
この島の悲しみを。
そして、あなたも、
私と同じこの瞬間(とき)を
一緒に生きているのだ。
 
今を一緒に、生きているのだ。
 
だから、きっとわかるはずなんだ。
戦争の無意味さを。本当の平和を。
頭じゃなくて、その心で。
戦力という愚かな力を持つことで、
得られる平和など、本当は無いことを。
平和とは、あたり前に生きること。
その命を精一杯輝かせて生きることだということを。
 
私は、今を生きている。
みんなと一緒に。
そして、これからも生きていく。
一日一日を大切に。
平和を想って。平和を祈って。
なぜなら、未来は、
この瞬間の延長線上にあるからだ。
つまり、未来は、今なんだ。
 
大好きな、私の島。
誇り高き、みんなの島。
そして、この島に生きる、すべての命。
私と共に今を生きる、私の友。私の家族。
 
これからも、共に生きてゆこう。
この青に囲まれた美しい故郷から。
真の平和を発進しよう。
一人一人が立ち上がって、
みんなで未来を歩んでいこう。
 
摩文仁の丘の風に吹かれ、
私の命が鳴っている。
過去と現在、未来の共鳴。
鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。
命よ響け。生きゆく未来に。
私は今を、生きていく。