2019-02-11

映画「ナディアの誓い」を観て

久しぶりに、本当に久しぶりに劇場で映画をみた。
心を捉える、ドキュメンタリーだった。
「ナディアの誓い」


 哀しみの果てを生きる そんな言葉が体を締め付けてくるような映画だった
ノーベル平和賞の受賞で、この女性ナディアの名前、ISによる虐殺と破壊、そして女性に対する性支配からのサバイバーでその現実を訴えてきた女性であることは知っていた?かもしれないが、やはり恥ずかしいことに何も知らなかったのだ。何もわからないままだったのだ。そして、そういうことなんだということが、ただただ、悲しいとその哀しみを深めていったのが、この映画を観た後に残っている私の思いだ。

 


 ナディアの哀しみの深みが、心を捉えている。それがこの映画の力だと言って良いだろうか。そして、こうした哀しみを生み出してきた私たち人間の恐ろしさ。
 2014年8月3日。イラク北部の小さな村に生きていたヤジディ教を信じていた少数民族が、ISISによって襲われた。暴力の支配。戦争とかテロといえば、何か政治的な大きな力を思うが、いじめも、ハラスメントも虐待も、DVも、みんな根っこは同じなのだ。私たち自身の中にそうした黒い力が渦巻いている。人のいのちも尊厳も奪い取って生きていく。そんな人間の残酷さに震撼としながら、このような哀しみの普遍性に気づかされる。そして、また、その哀しみを繰り返してはならないと、私たちは思うのだ。
 そう思う中で、改めてそうした思いが現実の世界を変えることの遥かなる遠さに押しつぶされそうになる。それでもなお立ち続けることの尊さ。ナディアがあの日まで将来美容師になる夢を描いて生きていた本来のナディアであることを取り戻すために、今、その証言者として生き続けるナディアとして生かされていく現実がある。そして、その本来の「ナディア」と呼ばれるものは決して戻らないという現実。その二重の現実を、それでも、希望を掲げて生き抜くのは、彼女がもはや、彼女自身ではなく、あのとき、生活を奪われ、家族を奪われ、尊厳を奪われ、自由を奪われ、命を奪われた大勢の声なきものたちの「声」として生きることになったからに他ならない。その「声」として生きることが、彼女の肩に乗っているのだ。「私は誰なのだろう」彼女はきっとこの現実を生きながら、「ナディア」である自分を新しい問いの中に受け止めていかなければならない。彼女は彼女でなくなるようにしながら、彼女自身を生きざるをない。何重にも悲しみを重ねて生きるのだ。
 だから、深い深い悲しみが、希望であるというアイロニーがここにある。

  

 ナディアは 彼女の深い心の傷を癒すためのカウンセリングを断っている。それは、同胞が皆同じ苦しみにあったのに、自分だけがカウンセリングを受けて楽になることはできないということだった。自分があの苦しみの只中で共にある同胞から離れることできなかったのだ。それが彼女の本心だろう。
 彼女は、もともと活動家であることは望んでいない。彼女はすでに失われてしまったのだが、あの地で生きた家族とともにあること、そこに生きた自分を抱きかかえていたのだ。その自分を取り戻したい。あの場所を取り戻したい。母に、高校の卒業証書を見て欲しかった、その思いを抱えていた。それだけだ。彼女はただ、自分が経験したことを話さないではいられなかったのだ。その証言が、ただそれだけが自分たちの家族の証なのだ。自分たちがあの地で生きた証なのだから。
しかし、そういう自分であろうすればするほど、彼女が生きることになるのは、活動家である自分なのだ。彼女が証言するのは、彼女の声によって、現実の中に正義をもたらして欲しいというただその思いなのだが、その思いはもはやその声を生きることによってのみ形を持ち、現実となると、示されるのだ。
 難民となってドイツに逃れていたが、そこで難民として生きることの苦しみは、なんと不条理なものだろう。なぜ、取り戻せない。
その不条理への悲痛な叫びを、声として世界に届けたい。救いを求めていたのだ。

 ところが、その願いは簡単にはもちろん叶えられないのだ。時間がかかる。このフィルムは具体的に、一つの歩みを記録する。ナディアが、国連総会の開会のスピーチをするということだ。それは世界の注目を集める。そうすれば、世界は、あのヤジディの世界に正義をもたらさねばと必ず連帯してくれるだろう。そうなれば、世界を変えることになる。
 そうかもしれない。しかし、その道ははるかに長い。
しかも、その自分の願いは、他の多くの願いの中の一つに過ぎないという現実が切実な彼女の思いを引き裂いていく。相対化されていく。たった一つの彼女の願いは、多くの中の一つなのだ。しかし、それでも、そのたった一つであることをわかってもらえるように働きかけていかなければ、「声」であることの意味がなくなるのだ。
 自分は、ここで、自分をしっかりと認めてもらわなければならない。そのためには世界中でこのことを伝える。しかし、メディアで求められるのは、美しい女性が悲惨な性奴隷とされたというそのセンセーショナルな出来事であって、どうしたら、そういう現実を変えられるのか、ということではないということにも気がつかされていく。
 そして、その事実を語ることは、なんと彼女にとっては屈辱の経験をフラッシュバックさせるものなのだ。そうして、あの屈辱はいつまでも彼女の中に繰り返される屈辱なのだ。尊厳を取り戻すための、声であり続けようとすることで、彼女は屈辱の中に立たねばならないという矛盾。

 結局、多くの人に共感を得ることができても、そのときに彼女の心に残るのは、やはり誰にもわかってはもらえないのだという深い悲しみでしかないのではなかったか。あのインタビュワーは、あのセレブリティは、どんなにしても第三者でしかないし、私の哀しみの外に居続ける。それだから、また支援しようという。支援できるのは、この哀しみの外にいるものだからなのだ。もちろん、その優しさに偽りはないだろう。そして、その連帯に、共感に感謝する。そうなのだ。そうでありながら、そこにある深い断裂を、彼女は知って行かざるを得ない。
 彼女が安心できるのは、彼女の同胞の哀しみに出会うときだ。
 一人の少年の叫ぶ歌声だ。その涙を流せる時だけが、彼女の本当の居場所なのだ。



 けれど、彼女は、それでも、その同胞たちの声とならねばならない。それは、同胞たちには、自分たちの境遇を救う、たった一つの希望なのだから。
 彼女は、その思いを受け止めている。受け止めざるを得ない。
 彼女に求められているものは、一体どれほど過酷な歩みなのだろうか。そこに起こっていることは、彼女を繰り返し、屈辱の中に突き落とすことでもある。それが、実りをもたらすことを信じていくしかない。
 しかし、その歩みが確かになれば、なるほど、その歩みが決して思っているような、望んでいるような世界の変革にはすぐには届かないという現実だけが残されることにもなる。すでにふるさとは荒れ果てた地となり、人々の命は帰らないのだ。
 この故郷にすぐには人は住むことができない。変えることはできない。

 故郷に帰ることができない彼らは、難民となって、どうやって生き得るのか。そのどれだけの人たちを世界は受け入れるのだろうか。
 果てしない、苦しみがより深く現実となって見えてくる。



 それでも。それでも、諦めてはならないのだ。彼女は、やはりそれでも「声」であり続ける。果てしなく、遠いことであっても、この道を歩んで、正義を求める。
その悲哀を生き抜く力を、彼女はどこから得るのだろう。

 逆に言えば、私たちは、彼女のその力も、また苦しみをも本当にはわかることはない。しかし、それでも、この映画にも力があり、私たちがそこから得るものに希望を紡ぐとすれば、私たちは、私たち自身の自らの深い悲しみを通して、痛みを通してのみ、彼女たちとともに生き得ることを見いだせるかどうかではないか。

 彼女が悲哀の中、断絶の中でも、それでもつかんでいる仲間の手があるのだ。それは、そういう哀しみの只中の連帯だろう。そのわずかな、苦しみの中の希望が、彼女を生かす力なのだと・・・そう思う。

 悲しみを生きる意味とその力を人間であるということの哀しみの只中に探している。まだ、探しているのだ。その答えを見出せたのか。私はそれを掴んでいるのか。そう問いかけながら、この映画を繰り返し、心に映している。

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