例年、6月中旬に行われる日本ルーテル神学校の神学生修養会。今年は諸事情があって5月に実施した。テーマは「教会と神学」。キリストの恵みに生かされた弟子たちが、ペンテコステを経験してその喜びを宣べ伝えはじめたその時から、神学はいつでも教会の宣教の働きに仕えるように営まれてきた。だから、宣教の現場で生きて働く神学に触れることで、神学校での学びが将来牧師として働く自分自身の姿の中に生かされるものであることを確認したかった。
JELC、NRKそれぞれから三人の若い牧師たちを招いた。藤木智広牧師、後藤由起牧師、関野和寛牧師。彼らが、牧師として宣教の現場でどんな課題を見てきたか、教会のなかでどんなチャレンジを受け、なにを試みてきたのか。その只中で様々な現実を乗り越え、突破していくために何を考えてきたのか。
それぞれにさらに留学をしてきたり、神学的学び・研究を積み重ねようとしている三人が、そうした取り組みこそが神学としてどんなふうに確認されてくるかを聞くことができた。教会という現場にあるからこそ、教会のなかで役員をはじめとする会員とともに生き、働き、一緒に考えつつ歩み、そこで働く牧師としての責任とともに彼らの生の声を聞くことは本当に意義深いことだった。
神学生は多いに学び、刺激を受けて、今すべきこと、出来ることに思いを新たにしてくれたと思う。神学教員として、神学をするものとして私自身も多いに学んだ。
教会は、いつでも終末に向かう途上にある。かつての姿も、今の姿も決して理想的なものでも、絶対的な形でもない。福音が分かち合われるために、誰とともに生きているのか、何を大切にし、どんな現実のなかにある人へ仕えようとしているのか。問い直しつつ、固定した形にとらわれないで、新しい姿をまたかりそめの姿としてでも、むしろ確かな神の国への一歩を刻むと心得ればよい。キリストのからだとしての教会の、そんな歩みのために私たちがともに考え実践するところに、本当に生きた神学があるのだ。
神学生には、その「神学する力」を神学校の学びのなかで身につけていってほしいし、神学校の教育はそうでなければと考えている。神学はいつでも、そうした現場での神学的格闘の積み重ねの中にあって、叙述されてきたのだ。そこから学ぶべきことは汲み尽くせないほどのものがある。現場で生かされる神学のために、いや、明日の教会の働きのために、二千年に及ぶ神学を歩みに、しっかりと学ぶものでありたい。
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