多くの戦争犠牲者のことを憶え、平和への思いを新たにする日。
ここのところ、死者との交わりについて書かれたものを数冊続けて読んだ。
姜尚中氏の『心』、いとうせいこう氏の『想像ラジオ』、そして、森岡正博氏の『生者と死者をつなぐ―鎮魂と再生のための哲学』。いずれも、死者の声を聞こうとしている。それを求めている。あるいは、そのことが、生きることを問い直し、本当に大切なものを取り戻す一歩になると訴えているようだ。
戦火のなかで、一体、どんな声が叫ばれたか。どんな思いが断ち切られたか。
それは、私たちと同じ日常を生きていた一人ひとりの魂の声なのだ。
私たちは、今日、改めて、私たちは誰とともにこの生を生きているのか、思い起こしたい。それは、ただ「生きている」人々の事だけではなく、すでに「死んでいる」人々も含めて、私たちのいのちがどこからつながり、どんな思いや祈りを引き継ぎながら、生きているのかという意味で、私たちが、誰とともに生きているのか、問うてみるということだ。
お父ちゃんやお母ちゃん、じいちゃん、ばあちゃん。おじさん。おばさん。具体的なつながりの中で、思い起こしながら、この生を、「今、生きること」を受け取っていきたいのだ。
戦後63年、原爆を、戦争を知らない世代は、日本の公教育ではすっぽりと近・現代が抜け落ちていて、本当に戦争の恐ろしさを知らないで育って来た。しかし、3・11の大きな災害と事故は、大規模ないのちの危機について深く考えさせることになった。若い世代も、改めて大量のいのちが奪われる恐ろしさを感じはじめている。生きることの価値を今一度確かめようとしている。だからこそ、今、私たちは何を求めているのか、自分の問いをまず確かめよう。
世界規模の経済的危機が、おそらくナショナリズムを喚起している。権力者は格差社会の鬱憤を仮想の敵をつくる手法で、相も変わらず、こうしたムードをあおろうとしているかのようだ。国際的な関係の中で演出される危機。それは真実なのだろうか。
私たちは私たちの問いを確かめ、私たちの求めているものが何かを確認しよう。「いのち」から「平和」へと結びつけ、世界の人々、民族、文化、宗教が共に生きることへと、私たちの軸足を運ぼう。そのために私たちが聞くべき声はどこにあるのか。
そういえば、少しまえに、葬儀礼拝の問題を論文で取り上げた時、その一番最後に死者との連帯ということを書いたことを思い出した。石牟礼道子氏の『苦海浄土』をひきながら、死者の声を聞くことを、私もまた強く考えたのだ。
http://ci.nii.ac.jp/els/40006997569.pdf?id=ART0001236055&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1376519187&cp=
けれど、そこで私は単なる死者との連帯で終わるのではなく、キリスト者は、まずこの人間的な私たち自身、生きているものも既に召されたものも、主のとりなしと浄めが必要であることを忘れてはならないと記した。私たちの、生(なま)の思い、生(なま)の声はまた、あまりに人間的で、怒りや憎しみの連鎖と化すこともあり得るからだ。
そうだ。単に死者の声を聞くだけではない。その先に、何よりも確かな、主の声を聞く。あの十字架に死にたもうお方の声を聞かねばならない。あの十字架で私たちを死んでくださり、そして、復活のいのちへの道を示されたお方。その声に聞く。それは、決して他の大勢の死者の声をないがしろにすることではない。他でもなく私たち全てを死んでくださったお方なのだから。そこからが私たちの新しい、軸足の定まるところと心得たい。
平和を願い、私たちがそのために何を生きるか。そのことを、今日、あのお方と考える。
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