2.福音が働く具体的なかたち
(1)説教、二つの聖礼典(洗礼、聖餐)
福音は、私たちにキリストの救いを約束し、今を生かす神の力に他ならないが、それは、具体的にみ言葉として働くもの。それは、みえないみ言葉とみえるみ言葉である聖礼典を通して私たちに働く。
①ルターは、「神の言が説教されなければ歌いも朗読も集まることもしないほうがましである」というほどに、礼拝の中心として神のことば、そして説教を位置づけている。説教は、単なる聖書の解説ではなく、私たちへの神の語りかけである。
②見えるみことばとしてのサクラメントもまた礼拝の中心。中世の教会は七つのサクラメントをもって生まれたときから死に至るまで信仰者の生涯を導く霊的ケアのシステムを用意した。ルターはこのサクラメントを定義し直し、イエスの命令と約束、そして具体的な物と結びついた形のものをサクラメントとした。しかし、そればかりではなく、例えばそれまで原罪の赦しのためとされてきた洗礼は、キリスト者の生涯にわたる神のゆるしと救いの始まりとされ、死と復活によって完成される終末論的理解をもって、全生涯にわたる神の確かな救いのサクラメントと理解された。この洗礼のサクラメントは信仰が私たち人間の業ではなく、神ご自身の働きとして私たちのうちに働き続ける恵みであることは、ルターにとっての救いの確かさを示すものと理解された。礼拝において、この恵みを確認できるとよい。
③聖餐については、中世のミサの改革として、もっとも大きな変化をもたらす物であったと言ってよい。司祭が人間の罪の償いのために繰り返し捧げるキリストの犠牲として理解されてきたミサ(聖餐)が、ルターにおいては、キリストご自身が私たちをゆるし、永遠の命へ生かすためにご自身を与えてくださる賜物として理解される。 ここで、私たち人間の側が捧げる行為の主体でなのではなく、神が私たちにキリストを与えてくださるという神の行為としてのミサの理解が示される。説教が非常に重んじられたとはいえ、主日の礼拝で聖餐が行われない礼拝をルターは考えていない。
具体的な形としては、聖餐の設定の言葉や祈りがこれまで司祭だけが神に対する言葉として祭壇に向かい語っていたものが、会衆に向けてはっきりと語られるようになることや、会衆がキリストのからだであるパンのみではなくキリストの血であるワインもいただく二種陪餐が実施されたこと、また、実体変化という説明をやめてただ、キリストの約束のことばに基づいたキリストの現在が理解されることや、この聖餐において教会の普遍的な聖徒の交わりが確認されることなど、ルターの聖餐理解は、実際の礼拝における実践的な改革となったし、また礼拝に集まる信仰者の敬虔に深く関わっている。
(2)悔い改めと罪のゆるし
①ルターは、イエスがその宣教のはじめに「悔い改め」を命じられていることから初め懺悔もまたサクラメントに数えたほどに、サクラメントに準ずる大事なものとして、悔い改めと罪の赦しの宣言をキリスト者の信仰になくてはならないものと考えている。ルターの宗教改革の出発点とされる95ヶ条も贖宥券の効力の問題を論じながら、キリスト者の生涯が悔い改めの生涯であることを伝えている。また、洗礼の霊的意味はこの悔い改めとゆるしにおいて日々新たにされてくることを教えている。それゆえ、これが信仰者の生活の中に与えられることは重要である。
②神のみことばの本来の働きは福音であって、人を救い・生かすのであるが、好みことばは律法と福音という二様の働きをもって私たちに働く。その時、律法は私たちの罪を明らかにし、責め立て、福音に生きるよう導くのである。それゆえ、私たちがこのみことばに出逢う礼拝において、悔い改めと罪の赦しをいただくことは何よりも大切なことである。ルターは、当時のミサの習慣もあって、公的礼拝のなかで具体的に懺悔とゆるしの宣言をもつ式文を用意していない。しかし、公的な告白の式文は改革の進む中で考えられるようになったと言ってよい。
③ルターは、教会のしるしとして「鍵の権能」を大切なものと数えている。それは、教会のしるしであり、特に教会の職務として牧師の権能とされているわけではない。それゆえ、牧師がその働きを具体的な形で担うことはあり得るし、またそのために牧師は召され立てられると言ってよいが、この鍵の権能によって、一人ひとりの信仰者を罪から解き、むしろキリストに結ぶことが教会のわざとしてまもられることを考える道筋は大切なことだと理解される。
こうしたことを合わせ考えると、今日、この罪の悔い改めと赦しの宣言をどのように保ち、実践的に一人ひとりに恵みとして働く道をつくるかということは礼拝を考えるために重要なことだと理解される。
(3)教育的意味
ルターは、礼拝において「最も大きくて、最も重要な部分は、神の御言を説教し、教えることである」(『ドイツミサ』428)という。神のみことばは一人ひとりに対する語りかけに違いないが、そのみことばが確かにその人の人生に意味あるものとして切結ばれる為には、聞くものが深くそのみことばの意味に導かれる必要がある。礼拝は、それに参与するものに様々なあり方で教育的に働く。繰り返し歌われる式文の言葉、祈り、朗読される聖書、歌われる讃美歌。ルターは、「ドイツ語の礼拝では、素朴で平易なよい教理問答が必要である」(同424)と言っている。教理問答は、単に洗礼の準備会でのみ用いられるものではない。また、一つの形になったものだけをいうのではない。むしろ、みことばに向かい合う者の問いに、平易に答えるというそのやり取りこそが真の教育と言えるだろう。説教を含めて、礼拝のなかにその教育的意味が実現することが考えられることはみことばを一人ひとりに届ける為にもっとも重要なことであり、必要なことと憶えたい。
(4)その他 福音に仕えるために
神のみことばによる救いの働きが、たしかに人々に分かち合われるように、ルターは、そのことを非常に大切に考えている。それが当時の礼拝の「形」を整えていくことになる。例えば、聖書をドイツ語に翻訳することはそのための大切な働きの一つだ。それまで、聖書はラテン語に翻訳されたものしかなかったが、ルターはワルトブルク城にかくまわれている間にドイツ語への聖書翻訳を完成させている。また、礼拝そのものにおいても、それまでラテン語のみで行われていたミサをドイツ語によって民衆に分かるようにしたことは、礼拝が誰の為のものであるのかということをもっとも明瞭に示したと言ってよい。
さらに、ルターの書いたドイツ・ミサを読んでいくと、礼拝のなかにあった祭壇の配置に対し、聖餐を人々と共にいわうように聖卓を配置すること、さらにその礼拝空間のなかで、司式者がどこにたち誰の方を向くのかという所作、さらに言えば式服が華美になり過ぎることを戒めることなど、礼拝の基本的な考え(神学)が具体的な形になっていくように工夫されていった。
(1)説教、二つの聖礼典(洗礼、聖餐)
福音は、私たちにキリストの救いを約束し、今を生かす神の力に他ならないが、それは、具体的にみ言葉として働くもの。それは、みえないみ言葉とみえるみ言葉である聖礼典を通して私たちに働く。
①ルターは、「神の言が説教されなければ歌いも朗読も集まることもしないほうがましである」というほどに、礼拝の中心として神のことば、そして説教を位置づけている。説教は、単なる聖書の解説ではなく、私たちへの神の語りかけである。
②見えるみことばとしてのサクラメントもまた礼拝の中心。中世の教会は七つのサクラメントをもって生まれたときから死に至るまで信仰者の生涯を導く霊的ケアのシステムを用意した。ルターはこのサクラメントを定義し直し、イエスの命令と約束、そして具体的な物と結びついた形のものをサクラメントとした。しかし、そればかりではなく、例えばそれまで原罪の赦しのためとされてきた洗礼は、キリスト者の生涯にわたる神のゆるしと救いの始まりとされ、死と復活によって完成される終末論的理解をもって、全生涯にわたる神の確かな救いのサクラメントと理解された。この洗礼のサクラメントは信仰が私たち人間の業ではなく、神ご自身の働きとして私たちのうちに働き続ける恵みであることは、ルターにとっての救いの確かさを示すものと理解された。礼拝において、この恵みを確認できるとよい。
③聖餐については、中世のミサの改革として、もっとも大きな変化をもたらす物であったと言ってよい。司祭が人間の罪の償いのために繰り返し捧げるキリストの犠牲として理解されてきたミサ(聖餐)が、ルターにおいては、キリストご自身が私たちをゆるし、永遠の命へ生かすためにご自身を与えてくださる賜物として理解される。 ここで、私たち人間の側が捧げる行為の主体でなのではなく、神が私たちにキリストを与えてくださるという神の行為としてのミサの理解が示される。説教が非常に重んじられたとはいえ、主日の礼拝で聖餐が行われない礼拝をルターは考えていない。
具体的な形としては、聖餐の設定の言葉や祈りがこれまで司祭だけが神に対する言葉として祭壇に向かい語っていたものが、会衆に向けてはっきりと語られるようになることや、会衆がキリストのからだであるパンのみではなくキリストの血であるワインもいただく二種陪餐が実施されたこと、また、実体変化という説明をやめてただ、キリストの約束のことばに基づいたキリストの現在が理解されることや、この聖餐において教会の普遍的な聖徒の交わりが確認されることなど、ルターの聖餐理解は、実際の礼拝における実践的な改革となったし、また礼拝に集まる信仰者の敬虔に深く関わっている。
(2)悔い改めと罪のゆるし
①ルターは、イエスがその宣教のはじめに「悔い改め」を命じられていることから初め懺悔もまたサクラメントに数えたほどに、サクラメントに準ずる大事なものとして、悔い改めと罪の赦しの宣言をキリスト者の信仰になくてはならないものと考えている。ルターの宗教改革の出発点とされる95ヶ条も贖宥券の効力の問題を論じながら、キリスト者の生涯が悔い改めの生涯であることを伝えている。また、洗礼の霊的意味はこの悔い改めとゆるしにおいて日々新たにされてくることを教えている。それゆえ、これが信仰者の生活の中に与えられることは重要である。
②神のみことばの本来の働きは福音であって、人を救い・生かすのであるが、好みことばは律法と福音という二様の働きをもって私たちに働く。その時、律法は私たちの罪を明らかにし、責め立て、福音に生きるよう導くのである。それゆえ、私たちがこのみことばに出逢う礼拝において、悔い改めと罪の赦しをいただくことは何よりも大切なことである。ルターは、当時のミサの習慣もあって、公的礼拝のなかで具体的に懺悔とゆるしの宣言をもつ式文を用意していない。しかし、公的な告白の式文は改革の進む中で考えられるようになったと言ってよい。
③ルターは、教会のしるしとして「鍵の権能」を大切なものと数えている。それは、教会のしるしであり、特に教会の職務として牧師の権能とされているわけではない。それゆえ、牧師がその働きを具体的な形で担うことはあり得るし、またそのために牧師は召され立てられると言ってよいが、この鍵の権能によって、一人ひとりの信仰者を罪から解き、むしろキリストに結ぶことが教会のわざとしてまもられることを考える道筋は大切なことだと理解される。
こうしたことを合わせ考えると、今日、この罪の悔い改めと赦しの宣言をどのように保ち、実践的に一人ひとりに恵みとして働く道をつくるかということは礼拝を考えるために重要なことだと理解される。
(3)教育的意味
ルターは、礼拝において「最も大きくて、最も重要な部分は、神の御言を説教し、教えることである」(『ドイツミサ』428)という。神のみことばは一人ひとりに対する語りかけに違いないが、そのみことばが確かにその人の人生に意味あるものとして切結ばれる為には、聞くものが深くそのみことばの意味に導かれる必要がある。礼拝は、それに参与するものに様々なあり方で教育的に働く。繰り返し歌われる式文の言葉、祈り、朗読される聖書、歌われる讃美歌。ルターは、「ドイツ語の礼拝では、素朴で平易なよい教理問答が必要である」(同424)と言っている。教理問答は、単に洗礼の準備会でのみ用いられるものではない。また、一つの形になったものだけをいうのではない。むしろ、みことばに向かい合う者の問いに、平易に答えるというそのやり取りこそが真の教育と言えるだろう。説教を含めて、礼拝のなかにその教育的意味が実現することが考えられることはみことばを一人ひとりに届ける為にもっとも重要なことであり、必要なことと憶えたい。
(4)その他 福音に仕えるために
神のみことばによる救いの働きが、たしかに人々に分かち合われるように、ルターは、そのことを非常に大切に考えている。それが当時の礼拝の「形」を整えていくことになる。例えば、聖書をドイツ語に翻訳することはそのための大切な働きの一つだ。それまで、聖書はラテン語に翻訳されたものしかなかったが、ルターはワルトブルク城にかくまわれている間にドイツ語への聖書翻訳を完成させている。また、礼拝そのものにおいても、それまでラテン語のみで行われていたミサをドイツ語によって民衆に分かるようにしたことは、礼拝が誰の為のものであるのかということをもっとも明瞭に示したと言ってよい。
さらに、ルターの書いたドイツ・ミサを読んでいくと、礼拝のなかにあった祭壇の配置に対し、聖餐を人々と共にいわうように聖卓を配置すること、さらにその礼拝空間のなかで、司式者がどこにたち誰の方を向くのかという所作、さらに言えば式服が華美になり過ぎることを戒めることなど、礼拝の基本的な考え(神学)が具体的な形になっていくように工夫されていった。
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