2014-01-23

教会が社会的・政治的な問題に関わるとき その②

それでは、具体的に教会がその時に対応して、教会としての声明を出すということをどのようにしたらできるだろうか。教会が教会としての立場・見解を表すと言うことは、原則的に教会の総会において決議されたことにおいて表される。

(例えば、最近の例でいうと日本福音ルーテル教会は2012年の5月の総会で「一刻も早く原発を止めて、新しい生き方を! 日本福音ルーテル教会としての『原発』をめぐる声明」を決議している。反原発の声明では、同時期に日本聖公会も総会で声明を採決している。http://mishii-luther-ac.blogspot.jp/2012/07/blog-post_10.html )

しかし、例えば今回の首相の靖国参拝が突然なされたような場合、その時に応じて、教会が何かを声明として明らかにするとき、教会の総会を開いている余裕はない。
そうすると、教会は結局実際には時に対応した声明、意見というものを公にはできないのか。

現実には、多くの教会は、そうした場合のために常設の委員会や団体を持っていて、それが教会に代わって声明を公にしている。あるいは、教団を代表する人格(議長や司教、主教など)が声明を出すという具合だ。それで、後から必要ならば、教会の総会で報告承認、もしくは改めて決議をする。そうでなければ、委員会名の声明や個人名の声明ということに留まるということだ。

じゃあ、誰がどういう形でその役割を担うのかということが実際の問題になる。また、教会においてそれぞれの委員会ごと、あるいは個人や団体でもそこにはどういうレベルの違いがあるか。やはり総会で決議されるような場合は最も重たいものと考えられるだろうが、そうでないものについては、どういう序列、教会での重みの違いを認識すればいいのだろう。

日本福音ルーテル教会においては考えてみると、もしかしたら、信仰と職制委員会がそうした役割を総会から委託されていると理解して来た伝統があるかも知れない。この委員会の前身?が信仰告白委員会であったとも聞く。総会で直接選ばれた常置委員会だから、総会閉会中の責任を担う常議員会とは立場を異にしても、自らそうした意見・声明を発信する可能性もあると考える意見もある。
しかし、実際にはそうしたことが規則上なにも決まっていない。また、2002年度の総会で社会委員会が設置されてから、信仰と職制とその委員会役割についてのスミワケの意識が徹底してはいなかった。そして、社会委員会は規約によって委員会独自の活動ということができない仕組みになっていて、実際に必要なタイムリーな働きを担えては来ていない。だから、結局は議長や委員会、委員長がなにがしかのアクションを起こしうるということもはっきりとしていない。だれがいつどういう形で声明を出せるのか、どういう秩序があるのかが今の段階では明らかではないのだ。それが今の日本福音ルーテル教会の状況だ。そうだとすると、今のこの段階で、どこかの委員会が何かを言っても、その根拠も責任も明瞭ではないということになる。

今回、首相の靖国参拝のみならず、社会的政治的な動きに懸念すべきことが起こっているというなかで、信仰と職制委員会はこれに向けて声明を出そうと話し合い、首相にむけた声明案を検討するところまで準備した。しかし、教会の今の状況の中では、まず秩序を整えることが必要だということが改めて認識されたのだ。そこで、常議員会へその旨報告して、声明を発表することを控えたのだ。本当は、なにかアクションを起こすべきときだという強い認識があったが、しかし、結局、このままの状況で何かを発信しても、それは教会のどういうアクションとしても位置づけられない無責任な言いっぱなしのものになるのではかえって良くないだろうと判断されたのだ。

同時に、改めて考えさせられたことは、こうした声明などは、それを公にすればそれでよいというものではない。
声明は一方では、外に向かって表すものだが、同時に教会の中に対して自らの有り様を示すことにもなる。信徒の一人ひとりに向けて、私たちの教会の信仰的な考えからすると、こういう問題について、いま教会はこう考え、こういう訴えをしていくのだということを教会の信徒の人々に呼びかけ、考えてもらうという教育的な働きと言えるかも知れない。だから、教会は、こうした声明を受けて教会のなかでその問題をどう考えるのか学びや意見交換などがなされ、信徒の皆が個人としても市民として国民として考え行動ができるように働きかけることもまた大切なことだ。個人個人の考えを尊重すること、異なる考えがあることを認めること、それでもなお大事にすべきことを一緒に考えること。教会のなかでそうした話し合いがなされていくことをどうつくっていけるのか。それこそが声明を出していくと言うことを内実化する。

さらに言えば、具体的に一般の人々のなかにある考え、その背景にあるムード、問い。それにたいしどのように教会が向かい合い、そこにどんな言葉を持つのか。そうしたことも考えていく必要がある。

だから、この目下の課題について、今、日本福音ルーテル教会は委員会レベルでも声明はまだ出ない。こうした課題を確認し、その課題をしっかり受け止め、取り組む。その歩みを確認できたことはなによりも大切なことと思う。今更と言われるかも知れないが、こういうことをしっかりと考えていくこと、常に確認していくこと。それが責任あるあり方だと学んだ。
(今回、信仰と職制委員会に参加しながら、話し合われ、共有された問題意識をここに記録した。)


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