2014-01-12

教会が社会的・政治的な問題に関わるとき その①

 安倍首相の靖国神社参拝は、国家安全保障会議(日本版NSC)の創設、特定秘密保護法の強行採決、武器輸出三原則の緩和や沖縄米軍基地の辺野古移設による固定化など一連の動きと相まって、首相と現政権の進もうとする道行きの危うさを示していることに、多くの教会関係者が憂慮を表して来ている。すでに、別に書いたように、様々な教会が委員会名や教団のしかるべき部署・委員長などの名前で安倍首相に対する抗議声明を表している通りだ。http://mishii-luther-ac.blogspot.jp/2013/12/5201413.html

 私が、個人的に各教会の抗議声明について書いたものをSNSで紹介したとき、ある方が、こうした教会の反応が公にされると、同じ考えではない信徒にとっては、教会にいづらくならないか。キリスト教が皆そういう考えを持っていると一般の人たちから思われるのは迷惑なことではないかというような意味のコメントをいただいた。コメントは、おそらくご本人がすぐに削除されたので、もう見ることもできず、正確なことばではない。しかし、こうした声が出されたこと、そして、それがすぐに消されたことは見過ごすことのできないことだと私の心に刻まれた。

 信仰者が一人ひとり、政治的な課題について自らの考えを信仰的に表明しているかぎりは、同じ教会にあっても、それはその人個人の考えであって、それぞれ違う意見を持っているかも知れないということは、一般的に理解されることだろう。しかし、教会が一つの声明を出すという場合、外から見れば、その教会に属しているということが、その教会の見解を自分のものと信じる立場にあるという意味に受け取られるだろう。少なくとも、会員としては、その教会に属する自分がもしその教会の表明した見解に一致できない場合に、その教会との関係について悩むに違いない。実際には一人ひとりの考えや思想を教会が強制的に縛るということはあり得ない。けれども、一般的な意味から考えれば、自分の所属する教会が公にした意見を受け容れられないなら、その教会の考えとは違うということを何らかの形で表すことを真剣に考えさせることだと思う。
 
 あのコメントが私に伝えたかったこととは、そういう難しさを感じる信徒があるのだという真実だ。しかし、そのコメントが取り消されたということは、そういう一人ひとりの逡巡、戸惑いを表わしにくいということでもある。それだけ、それぞれの信徒の心の中にこうした割り切れないような、居心地のわるさのようなものが沈んでいるということだろう。

 だから、教会が信仰内容に直接関わることなら、教会を割ることがあっても言わなければならないけれど、社会的・政治的な問題に教会として声明を明らかにするということには慎重であるべきだという考えが一般的だ。教会の一致は福音理解によって一致するのであって、政治的な立場や思想上の違いによって、教会にいづらくなるということがあってはならないし、教会の一致が保たれないことになるとは考えにくいことだからだ。日本福音ルーテル教会は2008年の総会で教会が社会問題に関わって見解を表明するということに関して信仰と職制委員会の見解を決議している。こうした理解をもって、教会は、絶えず少数であったとしても異なる意見や考えを持つ人々について配慮をし、声明などを明らかにすることに慎重さが必要である、としている。

 しかし、一方で教会が教会としてはっきりとした態度表明をすべきときもある。第二次世界大戦下、ドイツでナチズムがユダヤ人迫害の政策を推し進める中、その国家政策に従うドイツ的キリスト者という運動を教会の中に作り出していった。そのとき、告白教会という少数の教会がこれに反対し、国家の政策に対して抵抗運動を展開したのだ。それでも、抵抗し切れずにはげしい弾圧をうけた。そしてナチスは力づくで世界戦略を展開したのだ。しかし、戦争が終わって教会は深い反省を持ち、ナチスに抵抗し切れず戦争の悲劇をもたらしたことへ深い罪責の告白をしている。前にふれたニーメラーは、自分たちが告白教会としてできうるかぎりの抵抗をしたのにも拘らず、その事態を止められなかった責任を、頑張ったけれど力及ばなかった言わず、止め得なかったことを「わたしの罪、わたしの罪、わたしの罪」と告白した。歴史に生きることへの責任意識だ。
 日本の教会にも、同様…とまでは言わないが似たような状況があって、戦時中プロテスタント諸教会が日本基督教団へ合同したこととその教団としての戦争協力に用いられてしまったという深い反省がある。そのことへの戦責の告白は、教団名において明らかにされることはなく、戦後12年経って、教団の議長名で公にされたに留まった。日本福音ルーテル教会は戦後すぐに教団から離脱していたために、この問題については積極的なコミットはできなかったし、しなかった。ただ、このことについては、それぞれの離脱したかどうかに拘らず、プロテスタント諸教会において(おそらく日本基督教団自体もふくめて)、忸怩たる思いがあるかも知れない。しかし、それhどうあろうと、少なくとも同じ過ちは繰り返してはならないということについては異論はないだろうと思う。
 だから、キリスト者は、まして教会は、戦争と平和、基本的人権に関わるような社会的問題に対して、特に社会のなかで弱い立場にある人々のことを自らのこと以上に考えて、信仰の故に特定の見解を表明するということがあり得る。いや、まさに時に応じて、信仰者個人個人のみならず、教会が教会として、信仰的な立場から一定の見解、声明を公にする必要がある場合があるのだ。

 日本のようにキリスト者人口が1パーセントに満たないマイノリティであることは、その意見表明にどれほど社会的な影響力があるのかと問われそうだ。しかし、影響力を持つことだけが、意見表明の意味ではない。自分がどこに立っているのか明らかにするべきときがある。教会がキリストの教会として、この世界への責任、隣人への責任を果たすために、声をあげていくべき時がある。それがどんなに小さな声であったとしても、キリストの教会であるために声にしていかなければならないことがあると思うのだ。
 (この主題については、続きを書く。)



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