今日の基調講演のレジュメを起こして、講演内容を少しずつ紹介したい。
宗教改革は礼拝の改革として
宗教改革は神学的問題にとどまるものではなく、実践的な教会の改革であって、また当時の人々のパイエティを変えた。具体的には礼拝の改革が中心であった。しかし、それまでのミサを廃止したわけではなく、改革したものだ。ルターは「最も重要で、最も有用な秘訣は、ミサにとって何が根本的、根源的なものか、何がそれに付加された無関係なものかをしることである」 という。当時の教会の礼拝(ミサ)において根本的なものに無関係で、またさらに言えば有害な要素が付け加わっていたのだ。だから、今一度、礼拝が本来あるべき根源的な姿を取り戻す必要があったということだろう。その改革はどのような原理、礼拝についての理解(神学)によったものなのか。
1. 神の業としての礼拝 Gottesdienst
礼拝は、神の奉仕。神にたいして私たち人間が捧げるという人間の業ではない。礼拝は「捧げる」というよりも「与る」とか「まもる」という言い方をする。つまり、神のわざ、救いの働きなのであって、人間のわざではない。その神のわざとしての礼拝とは次のような本質をもっている。
(1)神のわざ、それはみ言葉をとおして
①改革のなかで、たとえば聖餐が二種陪餐へと変えられる。それは、ただ、イエ
ス・キリストの約束、そして命じられた言葉に従ってなされること。改革は、神
の言葉にその筋道が見いだされる。
②同時に、たとえば急進的なカールシュタットの改革を制止し、「唯一私たちの心
における偶像を取り除くのはみことばの説教」であるという。み言葉が働き、私
たち自身を変えていくという原則をもっていることも、大切なこと。
(2)福音の中心性
①福音の明瞭に示されること。これが礼拝にとって必要なこと。神による人間への
救いの働きがゆがめられたり、隠されたりすることのなく示される。すなわち、
宗教改革の神学によって確認された、神の恵みの働きのみによる救いがある。
②聖餐の理解ではっきりと示されたと言ってよいが、礼拝は犠牲ではなく、神によ
る賜物として、すなわち人のわざではなく、神の救いのわざとして示される。
(3)信仰者を創造する
礼拝は、信仰を要求する。ex opera operantis という主張は、執行者の問題では
なく、受領者の信仰に基づく有効性を主張している。信仰義認という言い方も同じ
だが、それは、けっして信仰が前提条件ということではない。無条件的な神の救い
のみ業であることは間違いない。しかし、その神のわざが、不信仰から信仰を創造
するのであり、それがみことばによる礼拝。信仰とはなれては存在しないという意
味。逆に言えば信仰者がそこに存在しないままで行われた私誦ミサなどへのするど
い批判でもある。礼拝はそこに人がいて、み言葉が聞かれ、そのみ言葉の働きによ
って、信仰がその人の内に創造され、生かすわざ。
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