「主日説教が、聖書研究会でのような講解的説話で終わってしまうのではなく、また、キリスト教教理の連続的講話に尽きるのでもなく、伝達された説教の余韻が残るかどうかです。会衆各自の日常生活のリズムや、信徒たちの交わりに、説教が生きるかどうかです。すなわち、地域会衆の存続に、「いま・ここで」、意味深く共鳴するかどうかということです。」(本文、第11章より)
みことばによってこそ、私たちの信仰がつくられ、私たちの心は熱くされ、慰められ、生かされる。そのようにみことばを聞きたい。そのようにみことばを分かち合いたい。そのようにみことばを取り次ぎたい。
「神の元気を取り次ぐ」こと。書名に記されたこのユニークな表現は、福音によって信仰に導かれ、その福音を分かち合う牧師へと召しを受け、長くその働きを担ってこられた筆者石田順朗先生が、今こそ教会の使命としてどうしても確認したかったものだといえるだろう。
進歩した科学技術がこんなにも私たちの日常を便利で快適なものにし、世界の新しい可能性を示しているのに、人々は孤立し、社会全体は先行きの不透明さに大きな不安を抱いている。教会もまた宣教に行き詰まり、子どもたちの姿が少ない現実の中で明るい未来を描けず、元気がない。
けれども、本当の元気は私たちの内からはけっしてわき上がっては来ない。筆者は、それはただ「神の元気」から来ると確認する。「神の元気」とは、神から被造物に与えられる「いのちの息吹」のことと聖書は示しているのだ。このいのちの息吹は、神の言葉として私たちに向けて語りかけられ、私たちを生かす力として働く。
ご自身が説教によって「元気をもらった」という原体験を長い信仰生活を通し確認し、また説教者として人々がそれによって生かされ、導かれるのを目の当たりにしてこられた筆者だからこそ、その真実を率直に示してくださっている。確かに説教が、人を元気にし、世界に神の御心実現していく。
その説教がどのように準備され、分かち合われ、伝えられてきたのか。教会の暦や聖書日課、聖礼典や礼拝のことなどについてやさしく説明を加え、細やかな配慮のなかに神のみことば、「神の元気」が用意され分かち合われて来た教会の知恵を教える。その知恵によってこそ、信仰者がこの歴史的世界のなかでどう生きるべきかを確かに受け取っていくのだといえるのだろう。
9.11、3.11という二つの大きな出来事を体験してきた現代には沢山の課題がある。その現代を生きるキリスト者に与えられている恵みと使命を「神の元気」において私たちは分かち合うものと教えられる。(「るうてる」2月号掲載)
この本も、神学生、特にルーテルの神学生の必読書の一冊。けれど、神学生だけではなく、むしろ教会に集う多くの方々に読んでいただきたいと思う。教会で語られるみことば・説教が分かち合われるためにどのように整えられているのかを知ることで、私たちの信仰のあゆみが暦の中で導かれていくことを豊かに受け取ることができよう。
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