2018-07-09

「オウム真理教」を考える〜なぜカルトに?④

二元論的世界観。

この世を善と悪が入り混じった世界とみる。まあ、誰が見てもそう見える。
しかし、その善と悪の混在は現状で良いとは思えない。このままでは解決できないし、世界は善に向かって欲しいとそう願う。
そこで、何が悪いのか。そして善はどこに見出されるのか。これが結局はそんなに容易には見出されないが、一定の修行の中でこそ、到達できることがあるということになる。

基本にあるのは、教団が善を持っており、この世界は悪に翻弄されて善が見出されにくいものだということだ。善悪二元論で、教団を絶対の善として、この世を悪と単純化して行くことが、教団の論理に引っ張り込む最も巧妙な隔離作戦だ。

教団に属することだけが、善に身をおくことになる。そこで導かれて行くことこそ、この世の悪に打ち勝つ方法だ。そうして、この世からの隔離への誘導する。
ホウレンソウ。報告、連絡、相談。これで教団の指示系統にしっかりと位置付けられて、一般社会との距離を作り出す。家族との関係よりも教団との結びつきの中に生きるようになる。家族への愛情は、認められるが、その愛情は家族を救うことに真実の愛情を見出させられるし、そのためには、まず家族からも離れて自分がしっかりと善に生きることがなければならないと思わされる。

教団への出家は必然となる。

オウムでは、おそらく自己の無限の可能性、その霊的、宗教的力(空中浮遊・幽体離脱など)を修行によって得ることや最終解脱への厳しい修行に入って行くことで、このよの悪に打ち勝ち、善なる世界への道を求めるように、教えられただろう。

その厳しさは、当然自分が求めたものだから、それに責任を持って取り組むし、その結果については教祖からの重用によって、地位を得ることによって報酬を得て、満足させられる。自分の中のあやふやさは、この教祖の絶対的な権威とそれによって生まれている力に頼ることで、解消されて行く。教祖が実際に力があるかどうかなど、もはやあまり関係なくなって、そうあってもらわなければ、託してきた弟子たちの存在そのものが揺らいでしまうのだ。だからこそ、弟子達は自分達のために教祖を持ち上げておかなければならないし、その権威と権力を絶対化して行くのだ。

そうして、教祖は絶対の善になって行く。この教団の中だけに通用するものだが、この教団で通用することが、全ての基準となって行く。弟子達はこの中での完全な生活によって、全てが賄われることを皆で作り上げていったのだ。
省庁が置かれ、大臣のような地位が作られて、小さな国家として成立して行くのは、彼らがこの教祖による世界を必要としたからだ。

やがて、この国は、現実の国に取って代わらなければならない。そういうところに追い詰められる。この世の理屈は、この教団には相入れないからだ。

終末論は、この教団と世界の相克によって彩られることが定められている。テロに向かう準備が出来上がるわけだ。

教祖により洗脳、教団によって押し付けられた理想。しかし、それは所属した自分達の選び取ったもの、自分達が共有していた世界であって、おそらく、信者の誰も洗脳されたとは思っていないのでは。そこにこのカルト共同体の恐ろしさがある。


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