2018-07-11

「オウム真理教」を考える②

彼らの求めたものは、言葉以上の「真理」であったのではないか?
(いただいたのは「真実」という言葉だった。記憶違い。この違いは重要だと思うので、改めて考えたい。)

問いかけに 私は少し戸惑いを覚えつつ、考えさせられている。
まさしくそうだと、思う。そうなのだ。彼らの求めたもの、彼らを捉えたものは「言葉」ではなかっただろう。
しかし、私のうちに起こった戸惑いは、「言葉」へのこだわりを私が持っているからなのだ。それは、捨てるべきものなのだろうか。
そして、もしそうだとしたら、いやそうでなかったとしても、彼らの求めたものが「真理」なのかということには、少しく留保をしておきたいように思う。

言葉とは何か。真理とは何か。

まるでヨハネ福音書に登場するピラトのように、私はこの問いかけの前に、どのように答えるのかと、自問しているのだ。

言葉が単に言葉であるということは、一体どういうことなのだろう。言葉以上のものを持たない、言葉というものを考えることが難しい。
だから、もし、彼らが言葉以上のものを求めたというのであれば、それは大変にわかりやすい。彼らは、単に言葉による知識を求めていたのではないのは明らかだ。

そして、それこそこのカルト教団が提供するものであったことは間違いない。
「修行」であり、それによって得られるとした「霊的ステージ」こそが、彼らの求めたものだっただろう。それを高めることは、彼らにとっては学歴社会で偏差値をあげるがごとくに、彼ら自身を駆り立てる原理だったと思うのだ。この霊的ステージが高まれば、そこには人間のの持つ一般的な能力を超える世界が開ける。今なら、さしずめゲームによってステージをクリアして行くと、次のステージが開けるのと似ているかもしれない。そのひらけてくる世界は、一般には理解され難いかもしれないが、それこそ彼らの求める新しい世界だ。ある種のエクスタシー。りんかい線を超えた境地が開かれるのを「体験」していく。修行の力。

もちろん、それに至るまでにも、彼らの中に経験される教団内の「人間関係」「信頼」「存在の肯定」なども、現代社会の中では簡単には経験できない、親密なそして厳しさの中で得られる真剣さを与えるものだったと思う。多くの信徒は、まるで父親に怒られるかのように真剣に向かい合ってくれる「尊師」の言葉を求めただろう。常に優秀で周囲の期待に応えることができてきた人々には特にもこんなに真剣な向かい合いを経験することは滅多になかったことだったに違いない。そして、おそらく皆が深い自己省察へと導かれただろうし、そこで厳しく自己否定への契機を受け取っただろう。そんなことは、経験したことがなかったことだ。これは、修行そのものへの道筋を作って行ったことだろう。

そして、新しい自分を作る。そうした人(信者)が増え、教えが広がって行くことで、必ず新しい社会も開けてくる。小さな物語は大きな物語の中に位置づいて行く。その実感。
極めて情緒的でもあるけれど、単純で明快なストーリーを語ってきたのではないか。
それは、その実体験こそは彼らの求めたものだったのではないかと思う。
生身に感じる確かさ。
それは「真理」を求めたものであったのか?

しかし、こうした体験のすべてをは言わなくとも、宗教は皆うちに持ってきたものだ。
「オウムが怖い」は、「宗教が怖い」となって当然ということだ。

では、何が違うのか。カルトとそうでない宗教と、何処が分岐点となるのか。その違いは、言葉によって確認されてこなければならないのだと、そう思っている。言葉を超える何かを示す。しかし、そこに語られる言葉が、その人にも世界にも何を作り出そうとしているのかを確かめる唯一の道なのではないのか。
言葉へのこだわりを、私はやはり捨てる事はできない。



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