2018-07-11

「オウム真理教」を考える③

あらゆる宗教に起こり得る狂気は、まず教団の内部における権力による暴力的支配の問題だ。社会に対するテロは甚大な問題だが、隠されていてあらゆるところにはびこっているという意味ではこちらはこちらでタチが悪い。そして、その意味でいうと、公式的なその宗教の言葉には表されない、極めて具体的で個別的な問題として存在するという意味でも、この問題は難しい。

おそらく、純粋な形での何かを求める信徒とそれにふさわしい?修行と霊的ステージを提供する教祖および教団組織という関係は、容易に、今でいうハラスメント的な力関係に陥ったことが想像される。霊的権力者が支配する構図。信徒の思考停止なるものは、「宗教だから」ではない。このハラスメント構造の中で生き延びるための服従の論理がこれをもたらすのだ。そして、おそらく積極的にこの論理に生き始めた者が自らをやはり正当化する時に、この一定の思考形態の中にはまり込んで、積極的にこれを補強する思考のみが強化されるのだ。

これが始まると、この宗教教団は暴力の支配する団体に変貌する。
圧倒的な権力・権威が支配する構図は、それを認め、受容し、かえって助長する被支配者たちの関係が保たれるように相互依存の現象も作り出すだろう。

この恐ろしさは、もちろん、カルト教団に限ったことではない。クラスでも、家族でも、恋人同士、会社でも、大学のサークルでも、宗教組織でも、どこでも作られる。
しかし、一旦これが成立してしまうと、崩しがたい。むしろ、その「カタチ」の正当化が暴力をさらに生み出す。これによって、どんなにそこに良いものの要素があっても、その組織自体が悪の製造マシンになっていくのではないか。

「ポアする」という言葉で、罪をおかさせないという理由づけを持って殺人を正当化する論理は、人のいのちと尊厳性を無視して、抽象化された宗教的言語の歪んだ理解だ。けれど、それを気がつかせない、気づいても止めることを許さない霊的?権威が支配するとき、この教団が何を提供するものと堕していったかは明白だろう。

独裁が生み出す危険な暴走は、かつて学生運動(連合赤軍)にも現れただろうし、ナチスなどの国家支配の形もとる。悪魔の構造だ。どこにでも現れる。宗教という最も善に満ちていると信じられているところほど、その罠によってこの悪を招き入れることになりやすい。
カルト教団と呼ばれるものの反社会性の根っこは、ここにあるのではないか。






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