2018-07-16

「オウム真理教」を考える④


信徒一人ひとり、次第に教団の狂気に巻き込まれていく。

しかし、そもそもその「信徒」は何を求めていたのか。
そこには極めて真面目な動機があった。そして、彼らはその誠実な性格であったことで、今回の教団の狂気に気がつかないのだ。なぜ、気がつかないのか。彼ら自身の言葉によれば、「『自分の考え』というもの自体が自己の煩悩であり、けがれである、として自分の疑問を封じ込めるように」なったという。完全な思考停止だ。それこそ、かなり高い教育を受けてきたはずの信徒たちが教団の狂気に気がつかないようにされた原因なのだろう。

(2018・7・14 朝日新聞朝刊)


ただ、そのような彼らは、なぜ教団の扉の中へと入っていったのか。

彼らが教団に「真理」を求めていたかどうか、「それは留保したい」と、以前書いたが、そもそも「真理」ということがいかなるものか、という議論を差し置いてこのようにいうこと自体生産的ではない。言いたかったことは、おそらく彼らは論理的、普遍妥当性をもつ「真理」を求めるつもりではなかったのではないかということだ。問題はむしろ、もっと実存的な問いではなかっただろうか。

 なぜ、自分が生きているのか。生きる目的は何か。
 私が私であるとは一体どういうことなのか。

現代の学歴社会で成果をあげてきた彼らの多くは、問いには必ず一つの答えがある、と正解を求める学びを生きてきた。しかし、人生を生きるということには参考書も正解一覧もない。よい大学、よい会社を目指すことのために、人生の多くの問いに立ち止まることはゆるされなかっただろう。
しかし、80年代の終わりから90年代のはじめバブルの時代は、膨れ上がっていく欲望の個人主義の中で、時代は将来へ向けての不安に傾いていったように思う。大学を出て、社会の一員となって生きていた彼らは、この漠然とした不安を沢山の娯楽や消費生活の中に引き込まれながら自分のものとしていったのだ。
その中で、生きることへの問いは、具体的な自分たちの生活の明日をどのように、なんのために生きるのか、という極めて個人的で実存的な問いとなった。だから、社会が何かをいうのではなく、私がこのことをどう感じ、何を考え、どう行動するのか。その自分の生きる確からしさを求めていたように思うのだ。

今でいうところの、スピリチュアルな問い。スピリチュアルなニーズが、やはり彼らの教団へと向かわしめた最も大きな理由だろう。

価値観も多様化し、不安な時代に、「断言」する力強さ。麻原にはそれがあった。強い信念を持って生きることへ、揺るがぬ確かさを示されたときに、おそらく、彼らはそれに惹きつけられていったのではないか。

しかし、そこに疑問をもつことは許されなかった。それこそ、この教団の秘密だ。
自由に批判できない社会は、小さな組織でも国家のような巨大な組織であっても、全く同じように、悪魔の支配に身を譲り、思わぬ暴走が自らを危うくするばかりか、他者を、世界を崩壊させて行くような脅威となりうる。

彼らは、その悪を自らのうちに引き受けてしまう。しかし、彼らはそれが悪とは思えなかったのだ。麻原の考えを生きることが、すなわち、世界のためであり、人類のため、私のために最もよい、確かなことと信じていたのだ。


0 件のコメント:

コメントを投稿