2018-08-01
「霊的な力」の問題 ①
あれだけ多くの信者を獲得したオウム真理教。教祖麻原の個人的な権力による悪しき支配が、教団を狂気の集団としてしまったわけだが、しかし、そもそもあの新興宗教団体になぜ、あれほどの信者が、しかも科学者や医師、弁護士などの理性的エリートたちが入信していったのか。
私のこのブログを読んでくださった一人の方*が、ご自身の見解を送ってくださったのだが、そこには次のように書いてあった。
「しかし、このような人物に騙された多くの若者がいたとういうことは、その教えに一定に魅力があり、それが当時の時代状況に適合していたのであろう。」
この教団の「魅力」は、一体なんであったのか。いろいろな形で今回の事件をうけてこの教団信者の実際については報告も出てきているわけだが、実際にみえてきていることはわずかでしかないのだろう。だから、一概にこの教団の魅力が何であったのかと断定的に述べることはできない。しかし、想像するところ、やはりそこには麻原の持っていたカリスマティックな言動によって人心が捉えられていったことだとが大きかったと推測される。
教団に何かを求めてきた一人ひとりは、社会への問題意識も含めて、自分が生きる現状に対し何らかの行き詰まりとか疑問をかかえていた。その彼らに対して、まずかなりはっきりとした受容的、肯定的なコミュニケーションを持ったこと、そして同時にその自己の問題性をすこしでも好転させていくための自己改革について具体的な修養プログラムを与えていること。その取り組みへの動機付け、また成果に対する報酬をしっかりと示していったこと。また、信徒同士に競争意識をもたせることなどの手法、麻原自身が模範となって取り組みの目標とすべき姿を示していたことが多くの信者を教団へと駆り立て得る力であったと思う。
そう思うと、これらの手法が人間の心理を見事に捉えたものであったというだけでのことと理解される。
けれど、そこでとどまっていると、「なんだ、やっぱり奴らの勧誘が手の込んだわなみないなものだったということで、正統なものが受け入れられないということは普通のことだ」ということになり、ひいては、「受け入れられないというところに、正当性というか真実があるとも言える」などというへんな理屈に堕していく可能性がある。
そんなことでは、結局、主の福音を求めのある人たちに届けることへの責任が果たせていないという現状にあぐらをかいてしまいかねない。
先ほど紹介した寄せていただいた意見は、次のように続いている。
「そしてこれらの若者の魂の渇きに答えられなかった既存宗教にも責任があろう。 私の信仰するキリスト教では何が足りないのだろうか。教義が難しい、外国の宗教で日本人の感性に合わないなどいろいろな考え方があろう。しかし私が一番足りないと思うのは、霊的な力だと思う。いくら論理を積み重ねても宗教を信じることはできない。」
「霊的な力」。キリスト教、特にプロテスタントの諸教会では、説教重視で、「言葉」の宗教とさえいわれる。しかし、そのことばに霊的な力があるのか? わたしたちに求められる「霊性」とは、いったいどのようなものなのだろうか。このあと、すこし考えてみたい。
*このお方、許可をいただいた。
藤原 学 様(日本基督教団金沢教会信徒)
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