「霊的な力」ということを、私たちはどのように考えるべきか。
こういう言葉は誤解を生みやすい。特に、日本の文化社会の中では、「霊」を私たち自身の霊魂ということを表すのと同時に、祖先の霊とか、守護霊とか、そうした目に見えない「霊」の存在ということを思い浮かべやすい。そして、そうしたさまざまの「霊」に包まれるようにして、人間にある種の特別な「霊能力」のようなものが与えられると考える傾向が強い。それは、目には見えないけれども、実際のこの世界の様々な現象を左右するような力のことだ。「霊」との特別な交流を通じて、現実を動かしていくような「力」というような意味であろう。だから、「霊的な力」は霊視、予言、物体移動、幽体離脱、また降霊、憑依などの超自然的な能力を考えてしまうのだ。
実際、オウム真理教でもそうした特別な能力が修行によって得られると教えた。麻原の座禅姿の空中浮遊などもその典型だろう。
しかし、キリスト教信仰において、私たちが「霊的な力」ということを考えるときには、そうした超自然的特殊能力のようなものを考えるわけではない。
ものすごく単純に言えば信仰そのもののことをいう。聖霊の賜物。コリント一12章1〜11節にあるような、信仰の益となる働きをもたらす力であり、具体的には教会を立てていく働きを担い、キリストの体として連なるものとして、神がわたしたちに働いて、わたしたちを生かすということなのだ。ガラテヤ書5章には、聖霊の実として「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」が数えられている。けれども、こうした言葉にしてしまった途端、「霊的な力」と言われるところのものが、頭でっかちな理屈の中に閉じ込められてしまうように思う。つまり、これらの聖書的な言葉は、間違いなく「霊的な力」を示しているし、説明にもなる。けれど、そこに止まる限り、決して、本当にはその力の豊かさが見えづらくなるように窮屈に感じてしまう。
生き生きとした、感性。
こうして、説明を始めると、途端にそうした霊的なものから遠のいてしまうようなもの。しかし、確かに、私たちが信仰において与えられる感謝と喜びの湧き出てくるところ。そういう出来事が私たちのうちに生み出されてくることこそ、「霊的な力」を見出すところであると思うのだ。
人と人とが、ふれあい、支え合うところに見出される優しさと安心感。共感するときに震える心。あの赤い夕焼けを見て心にしみてくるような懐かしさ、暖かさ、柔らかさを受け取り、また分かち合う自然な振る舞いやことば。本来私たち人間が共に生きるように与えられた、何気ないいのちの支え合い。繋がり。私たちはそうした与えられていた自然を
自己の罪のゆえに歪め、失ってしまっている。それなのに、この素晴らしいふれあいと繋がりは、恵みによって、導かれて私たちのうちに動き出す。
そのほんの一瞬。罪でしかない私を破り、溢れ出てくるように感じられてくる何か。
そこに「霊的な力」の場があるのだ。私のものではなく、私をその働きの場とする「霊的な力」の存在。
2000年前、イエスにおいて最もはっきりと示されたものだ。貧しい人々に深く関わり、病人を癒し、悪霊を追い出すような働き。皆がその小さな出来事の中で、「霊的な力」を味わったに違いない。
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