誰もカルトに入ろうと思うわけじゃない。
しかし、それに捉えられていくのは、現実の世界の中での生きることの息苦しさにあろうか。
この世では、もろもろの評価によって自分がはかられてきた。よい成績、よい学校、よい会社、よい結婚。一流とまでいかなくても、社会的な評価のあることや収入の確かなことで中流以上の自分を作り上げられねばならない。いまだったら、そこからのおちこぼれは負け組といわれようか。でも、わたしたちはいつでもそんなふうに上手くいくわけじゃない。そうなったときの喪失感はわたしのいきることを根底から揺さぶるのだ。
親も、子どもを愛していると言いつつ、どんな「立派さ」であるか、それが気になって仕方が無いのでは。その「立派さ」に至らないなら、まるですべてが失敗であったかの如くに落胆する。
そういう世界に生きるわたしたちの心には、自分の存在そのものを認めてもらえているのか。自分の人生の生き甲斐や、生きる意味、目的などが分からなくて、不安や恐れがみちている。むしろ、「よい」とはなにか、「立派さ」とはなにか。そんな漠然としたものに捉えられていて、自分が見えなくなっていく。本当は自分はどう生きていくのだろう。何をするために自分がいるんだろう。
安定した社会生活のなかでだって、そうしたことが「むなしさ」として表現されたのが、あの時代に信者となり、幹部となっていった「優秀な」ひとたちのなかに少なからずあったのだろう。
まして、何かの理由で、成功もなく、認められることなく、むしろ居場所がないと思ってしまった若者の、こころの空洞、生きる力を見出せない苦しさ。それがカルトと呼ばれる集団であろうと、そこにいったら全くちがう世界が開けているとしたら、そこに魅了されるということもありえよう。
現実とは全く違う別の世界で、生き直せる。それが認められる。それが与えられる。努力はすぐに評価される。大事にされる。いままでを全部ちゃらにして、そこではじめなさいってそう言われたら、そう信じられたなら、別の世界へ行きたくなる。
はっきりとした目標が立てられ、支援され、計画が与えられて、自分が位置づけられる。
努力は報われる。
この世からの、完全な逃避を実現する。
カルトは、そんなふうに一人を誘うのかも知れない。
この世界に生きることの、つらさ、不安、おそれ、罪深さに耐える力がなかったなら、別の世界に逃げたくなる。そういうものかも知れない。
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