今年のテーマは、「『カトリック教会の諸宗教対話の手引き』について」。
2009年に出版された、同書の解説をいただきながら、今日のカトリック教会が他宗教についてどのような姿勢を持っているのか、また、具体的な現実のかかわりの中でどういう問題があるのかなど、キリスト教会と他宗教との関わりということについて、大わ変興味深い発題をいただいた。
2009年に出版された、同書の解説をいただきながら、今日のカトリック教会が他宗教についてどのような姿勢を持っているのか、また、具体的な現実のかかわりの中でどういう問題があるのかなど、キリスト教会と他宗教との関わりということについて、大わ変興味深い発題をいただいた。
http://www.cbcj.catholic.jp/publish/other/jissen/jissen.html
信徒の信仰生活では、当然のことながら、親せきや地域のかかわりの中で必然的にキリスト教以外の宗教に関わることがある。どのように対応するべきか、非常に具体的な問題について、カトリック教会が指針というか、手引きを明らかにしているのだ。
発題は、フランコ・ソットコルノラ司祭と園田善昭司祭。本の内容にそって解説をいただく形式ではあったが、ソットコルノラ司祭が基本的な神学的な取り組みについて話され、園田司祭は具体的な問題にかかわっての発題だった。
具体的課題は、たとえば冠婚葬祭で他宗教とかかわる場合のことあるいは地域のお祭りや正月のお飾りなど、日本の生活習慣の中にある宗教性とのかかわりの中でクリスチャンとしてどのように対処すべきかというもので、これは大いに役立つ。
第二バチカン以降の他宗教への新しい対応の在り方をわかりやすく解説された。
カトリックの基本的な考え方は、包括主義といえよう。他宗教にも真理の契機があることを認めつつも、キリストがない限り、救いは教会以外にはない。結局は唯一の真理と救いはカトリックにあるので、他宗教の中にも良いものは認めるけれども、回心がおこならない限り救いはあり得ない。けれども、他宗教との対立はさけ、忍耐強く対話を続ける。
しかし、結局対話において、変わるべきは常に相手側であって、教会には変わる必要はないというのが基本的な考えであるようだ。
けれども、他宗教のなかに、カトリック(キリスト教)よりも優れたものはないのか。
たずねると、
実践のなかでは、カトリックの真理への接近に大いに役立つもので、自分たちの伝統の中にはなかったり、あるいは時代とともに見失われてきたものもあるので、現在の宗教間対話がカトリックにいろいろなよい影響を与えることはあるという答え。
でも、ここからが問題なのだ。たとえば実践において、仏教の禅において、自らを無とするやり方がある。仏教にはキリストがないし、十字架の贖いがないわけだから救いは求められないけれども、この実践には、自らを無にして神様の御心に満たされる方法を示唆されるという。たとえば、キリスト教におけるケノーシスとも重なるという。
これなら、実践的ななにか。方法論の援用ということにとどまりそう。
でも、園田司祭の発言は非常に微妙な展開を見せた。
つまり、他宗教にみとめるべきことが単に実践的な問題だけなのか。キリストの真理が最終的・決定的なものであることをゆるがせにせずとも、キリスト教、カトリックがその真理についてただ一つの絶対的な理解を今すでに持っているということが言えるのか。神学の中に真理理解の発展ということがあるとするなら、現在の神学の言葉は部分的なものでしかない。つまり、歴史の中で相対的なのだ。キリストの真理をすべて言葉にしつくし、絶対的な表現を持っているとはいえない。絶対的でないのであれば、相対的な理解にとどまる。ならば、もしかすると他宗教の真理理解に、部分的であるとしてもより優れたものがないとは限らないのでは・・・と。
これは、大変微妙な発言。カトリック的インクリューシヴィズムは、歴史主義において相対化されてくるようにも思えるのだ。
ここをもう少しお聞きしたかったところだが、限られた時間を思い、これを掘り下げることはできなかった。しかし、園田司祭が、他宗教との長い対話のなかから、注意深く発言されたその言葉は、なかなか重たいものだ。キリスト教の相対性を語るとしても、キリストの絶対性は疑うことはない。それでも、謙遜に、しかし、確かな信仰を生きながら、真摯に信仰を異にする人々と向かい合う知性を思わされた。
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