2017-01-04
「2017年宗教改革500年 カトリックとルーテルの共同声明」に学ぶ ⑴
2016年10月31日、スウェーデンのルンドで行われたカトリック教会とルーテル世界連盟の「共同の祈り」の礼拝において、2017年の宗教改革500年を共同で覚えるに当たっての声明文が公にされた。この声明はフランシスコ教皇とユナン連盟議長が書名をして発表されたのだ。少しずつ、この声明文を読んで学んでみよう。
はじめに、この記念礼拝でのテキストとされたヨハネ福音書が記される。
〈本文から〉
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。
ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができ
ないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶこ
とができない。」(ヨハネによる福音書15章4節)
〈学び〉
みことばを記すことにはじまる声明。みことばによってこそ導かれるという基本的な姿勢をしめしているといってよいだろう。これは、この宗教改革500年の記念ということに留まらず、近年のエキュメニカルな交わりの基本を示している。それぞれの教会の神学的な主張からはじまるのではなく、伝統に縛られるのではなく、みことばによってこそ導かれるべきなのだという意味を示している。
さて、このヨハネ15章の箇所が示されることで、カトリック教会もルーテル教会も等しくキリストに結ばれ、キリストに生かされ、豊かな身を結ぶものであるようにと主に呼びかけられている存在として認め合っていることが示されている。
当然のことのように思われるかも知れないが、決してそうではない。宗教改革者マルティン・ルターはカトリック陣営と論争した末に自説を撤回することのなかったために断罪された。その信仰に連なるルーテル教会はもちろん、カトリック教会からたもとを分かつこととなったプロテスタント教会は、カトリックから見れば教会として認められない異端とされてきたわけだ。逆にルターをはじめプロテスタント教会は、聖書に基づく福音主義を掲げて、カトリック陣営、特に聖書の解釈の正当性を独占するような教皇主義を徹底的に攻撃をした。中世から近代への歴史の中では両方の勢力は政治的な意味での対立と重なり西欧世界においては争いと対立が繰り返されてきた。
そうした対立は、近代国家の成立の歴史とともに比較的穏やかになっていくけれども、基本は変わらない。そうした関係を決定的に変えたのが、カトリック教会の大転換だったといってよいだろう。1962年から65年まで開かれた第二バチカン公会議は、カトリックのみならず世界のキリスト教会に大きな影響を与える会議となった。カトリック教会は、この四年にわたる公会議で、現代世界のなかに新しい教会の姿を求めて大きな舵を切ったのだ。その中で、1964年にエキュメニズム教令を公にしてプロテスタント教会にも真理が示されていることを否定しないこととなった。難しく言うとカトリック教会の包括主義的な立場(最終的に救いについての確かな真理があるのはカトリック教会に他はないのだけれども、部分的には他の場所においても神の普遍的真理を示すものがあることを否定せず、それを認めていこういうこと)をしめしている。しかし、実質的に大切なことは、中世の時のようにルーテル教会を「断罪する」という考えを改めて、兄弟としての教会と認めていく可能性を示したということだ。
そこからはじまる対話の歴史こそ、みことばによって導かれたものだ。その歴史があって、カトリックの立場からも、ルーテル教会が確かにキリストに連なるものと認められるようになったといってよいのだろう。ルーテル側からすればはじめから一つの教会を飛び出すことが目的の改革の呼びかけであったわけでもなく、こうした積み重ねられる対話によって、福音が明らかに示されていく教会の本来の姿として示されていく道筋にカトリック教会も立っていると認められることだっただろう。一つのキリストに連なる枝、互いに違いを認めつつ、その働きを尊重し、世界に向かって福音を示していくキリストの体としての教会を教派を超えて連なり宣教の働きを担うものとますますなっていくように、みことばが招いているのだ。
だからこそ、今、改めてこのみことばに聞くことが示されている。教会はたとえ教派が異なっても、キリストに連なるものとして認め合えることがなによりも大切なのだ
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