2017-01-09

「2017年宗教改革500年 カトリックとルーテルの共同声明」に学ぶ ⑷-②

〈本文から〉
わたしたちの共同体の多くの会員たちは、十全な一致の具体的な現れとして、ひとつの聖卓で聖餐を受けることを心から願っています。全生活を共にしながら、聖餐の聖卓において神の救いの現臨を分かち合うことができない人々の痛みを経験しています。わたしたちはキリストにあってひとつとなるという人々の霊的な渇きと飢えとに応えるべき、わたしたちの牧会的な共同の責任を認識しています。わたしたちはキリストのからだにおけるこの傷が癒されることを切に願っています。これは神学的な対話へのわたしたちの関わりを新たにしていくことによってもまた、わたしたちのエキュメカルな努力の目指すところなのです。

学び
 キリスト教の教派を超えた交わり、対話と共同・協働の関係を築いていくことをエキュメニズムと呼ぶが、これは「教会一致運動」とか「世界教会主義」などと訳される。
 もともとイエス・キリストを救い主と信ずる信仰者は、それぞれに違いがあっても父と子と聖霊の一つの神を信じ、一つの洗礼によってキリストの体に結ばれているものであって、その体はそれぞれを尊重し、それぞれの働きが結び合わされて成長し、この世界に働くものと教えられている。だからこそ、歴史の中で一つの教会ということが絶えず求められてきたといってよい。
 しかしながら、一つであることを求めることは、間違ったものや異なるものと判断されると、それを排除していくということと裏腹の関係となることはさけ難い。現実には時代や場所、状況の違いがそれぞれの信仰に特徴をもたらすものだし、言葉や文化が異なれば信仰の理解にも違いが生まれる。人間の世界に存在する限り、政治的な力関係のなかで異なるグループが分裂したり、影響し合ったりすることも当然起こる。それが、今日のキリスト教世界のなかに多様な教派の存在を造り出してきたといってよいだろう。
 その違いを改めて認め合いながらも、やはりキリスト教は本来の一つのものとして一致していこうというのがこのエキュメニズムということになる。カトリックとルーテルもお互いを認め合い、一致のためにこの対話を重ね、交わりを深めている。
 あらゆるエキュメニズムの目指すところは、必ずしも組織的な完全なる一致、融合ではない。むしろ、それぞれの教派の違い、その存在を確かに認め、それをキリスト教の豊かさとしていけるように考えているといってよいだろう。その時に、具体的に目指している姿は、共に聖餐にあずかる一つの礼拝をもつことと言われている。主の食卓を共に囲むことは、やがて神の国が実現するときの一致、その祝宴の先取りを今・ここに経験することに他ならないからだ。
 カトリックとルーテルは、今、これだけ対話を重ね、お互い理解し、これからもその歩みを重ねていくことを宣言しているのだが、それでも、まだ聖餐を共にすることは出来ないでいる。実は、カトリック教会はどんな教派ともまだこの共なる聖餐というところまで一致を実現してはいない。一つの聖餐ということが一つの教会ということを現すということが本当に大切なこととと理解されているが故に、教会とはなにか、聖餐とはなにかということの理解に一致がなければ、聖餐を共にすることは出来ない。それを曖昧にして聖餐を共にすることは、結果として相手を尊重しないということにもなってしまうからだ。だからこそ、共に聖餐にあずかるということについては、本当に慎重になっている。この聖餐は、単なる食事でなく、特別な意味をもっているからこそ、この食卓を一つに交わりをもつためにはお互いにその意味を理解することが必要なのだ。
 しかし、この声明は、その「共なる聖餐」を目指していることをはっきりと示している。そこに向かっているのだと表明するのは、その実現がそんなに遠いことではないと理解されているのだと信じたい。
 お互いを認めているのであれば、一つの食卓を囲むというそんな単純なことがどうしてできないの?そんなのおかしいよ。と、素直に思うことは決して間違っていない。それがエキュメニズムの原点だといってよいだろう。だから、そんなのおかしいと思う痛み、哀しみ、あるいは悔しさ、そういうものが、一つの聖餐を実現する時に、本当に癒されていくことであることを思わずにはいられない。だから、それを渇望する。これがエキュメニズムを進める力だと思う。

 たとえば、今、同じ町にカトリック教会もルーテル教会も普通に存在しているのだから、そのカトリック教会にいっている人とルーテル教会にいっている人が互いに友となって、お互いの教会を行き来するということは普通にあっておかしくない。でも、その相手の教会の礼拝に出席しても、そこで祝われる聖餐、ミサにはあずかれない。たとえば、カトリックの人とルーテルの人が結婚したら、いずれかの教会に完全に転籍してということでなければ、一つの礼拝、一つの聖餐にあずかることは出来ない。これが分かたれているということの痛みなのだ。

 だから、「ひとつの聖卓で聖餐を受けること」が本当に願われているのだし、その実現は必ずや大きな証になる。争い、分かたれてきたところに、交わりが、和解が、慰めが与えられること。この願いは、実現へとむかっているのだ。
 

 

0 件のコメント:

コメントを投稿