〈本文から〉
●争いから交わりへと変わっていく
宗教改革によって受けた霊的、また神学的な賜物に深く感謝しながら、わたしたちはまた、ルーテル教会もカトリック教会も教会の目に見える一致を傷つけてきたことをキリストのみ前でざんげし、悲しみます。神学的違いには偏見と争いとが伴いましたし、宗教は政治的な結果に至る手段となりました。イエス・キリストを信じるわたしたちの共通の信仰とわたしたちの洗礼はわたしたちに日毎の悔い改めを求めています。それによってわたしたちは、和解の務めを妨げる歴史的な争いと不一致とを捨て去ることができるのです。過去は変えることができないのですが、何が記憶されるのか、それがどのように記憶されるのかは変えられうることです。わたしたちお互いの見方を曇らせてきた傷と記憶の癒しをわたしたちは祈ります。わたしたちは過去と現在のすべての憎しみと暴力、特に宗教の名によって言い表されてきたそれらを強く斥けます。今日わたしたちはすべての争いを捨てるようにとの神のご命令を聴いています。わたしたちは、神が絶えずわたしたちを召しておられる交わりへと向かうように、恵みによって自由にされていることを確認しています。
〈学び〉
宗教改革の歴史を見るというとき、カトリック教会から見る場合とルーテル教会の側から見る場合とでは全く異なるものであったということを考えておかなければならない。ルーテル教会にとっては、宗教改革こそ自らのアイデンティティーを確認する神学的・霊的なルーツであり、福音の「正しい」理解を回復した出来事、カトリック側から見れば、それは教会の一致を乱し、多くの人々が「真の」教会から奪い取られていくような出来事として記憶されてきたと言えるだろう。
しかし、この声明ではカトリック教会もルーテル教会もともに、この出来事を「霊的、また神学的な賜物」をもたらしたといい、また「教会の目に見える一致を傷つけてきた」というのだ。こうしたことを両教会が共に告白できることこそ、長い対話の積み重ねのなかで、宗教改革という出来事を教派の視点というよりも神の教会の歴史のなかに見る視点に開かれて見出すことができた地平を示しているということだろう。
そして、そういう地平にたって神の前に深く懺悔しなければならない自らの罪をしっかりと見出し、告白することへ導かれているのだと思う。ただ、神の前に打ち砕かれて自らを告白する時にだけ、私たちには未来への確かな歩みをはじめる力をえるのではないだろうか。そして、そういう歩みをする時に、「過去は変えることができないのですが、何が記憶されるのか、それがどのように記憶されるのかは変えられうる」と大胆に語り、新しい歴史への責任を見出していくこととなっている。
「過去と現在のすべての憎しみと暴力、特に宗教の名によって言い表されてきたそれらを強く斥け」ると宣言する時に、両教会は単に自分たちの過去についてのみ語っているのではなく、「今の世界」への責任をかたっているのだ。神のみことばに聞き、神の前に自らをかえりみることが、私たちの今への責任とそこへ生かされる力とを恵みのうちに見出すことへと向かわせるのだ。
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