2017-01-10

「2017年宗教改革500年 カトリックとルーテルの共同声明」に学ぶ ⑷-③

〈本文から〉
わたしたちは神に祈ります。カトリックの者たちとルーテルの者たちがイエス・キリストの福音を共に証しし、神の救いの働きを受け入れるべく人々を招くようになることを。わたしたちは共に奉仕の務めに立って、特に貧しい人々のために、人間の尊厳と権利とを高め、正義のために働き、あらゆる形の暴力を斥けることにおいて共に奉仕に当たることができるよう、霊の導きと勇気と力とを神に祈ります。尊厳、正義、平和、和解を切に求めているすべての人々にわたしたちが近づくようにと、神は呼び掛けておられます。今は特に、多くの国々や社会で、またキリストにある数え切れないほどの姉妹や兄弟たちに影響を及ぼしている暴力や過激主義を終わらせるよう、わたしたちは声を挙げねばなりません。わたしたちはルーテルやカトリックの人々に、知らない人々を受け入れ、戦いや迫害のゆえに逃れることを強いられた人々に助けの手を差し伸べ、難民や亡命を求める人々の権利を守るよう、共に働くことを強く求めます。



〈学び〉
この声明は、単にこの二つの教会の和解と一致ということに終始せず、むしろ、それが両教会が共同・協働して宣教の責任を担うように決意し、また両教会に属している人々に強く呼びかけていることだ。
 中心はキリストの福音を分かち合うこと。しかし、信仰への招きということだけを語るのではなく、この世界に神のみこころである正義・公平・平和を実現していくつとめを重く受け止め、その責任を担っていくべきことを語っている。特に、現代世界という文脈をしっかりと見つめ、今も多くの人々が差別や争いや暴力によって人間として生きる尊厳を奪われていることを課題としていることがわかる。
 声明は、そういういのちの尊厳と正義、平和と和解を求めている人々に「近づく」ことへと神が呼びかけておられると招いている。「近づくこと」は、具体的に問題に関わり、人々の苦しみに触れるということだ。それは、この招きに応えて近づくものたちに、傷つき、痛み、哀しみや怒りをもたらすことでもある。それでも、そうやって共に生きることを神がもとめている。福音を限られた人々の中にとどめるのではなく、貧しい人や苦しみの中にある一人ひとりへと届けること、逆にいえば、そうした人々を自分の場所へ招くこと、受け入れていくことを両教会、いやキリストの教会のつとめとして深く見定め、信仰者を押し出しているのだ。
 ことにも、難民受け入れの問題に揺れる伝統的キリスト教世界である欧米社会にとって、この語りかけがなされた意味は大きい。現状はといえば、いわゆるポピュリズムの大きな流れは一定の限られた人々の利益にだけ結びついてる保護主義・排他主義が力を得ているようだ。あのとき、多くの群衆が「イエスを十字架につけよ」と叫び出したことを思い起させる。煽動する者たちがあったに違いないが、人間の愚かしさはいつの世も変わらない。けれども、その大きな流れが、たとえ人からあらゆる尊厳を奪い取っていこうとも神がそのいのちを愛される。それを、主の十字架の出来事が示している。だからこそ、イエスを主と仰ぐ者たちはともにこのキリストを証しするように招かれているのだ。




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