『キリスト者の自由』における悪の問題 〜現代社会に生きる魂の問い〜
1.問題意識:「自由」とはなにか。
中世の終わり、近代前夜の胎動の中、ルターは「キリスト者の自由」をいう。「自由」は近代を象徴するもの。けれども、ルターはキリスト者となってはじめて得られる「自由」を語る。キリスト者となることによって与えられる自由を語ることは、現代を生きる私たちにどのような意味があるのか。
(1)現代人の自由。
不自由のない現代は「自由」を求めないか。
ITプラトニズムの時代 。時空を超える。身体性を超える。自分を超える。
(2)「自由主義」の行き詰まり?
「自由」は近代の指標の一つ。しかし、その原理が自由な競争世界を資本主義のも
と展開し格差を産み出す。近代のもう一つの指標である「平等」が揺らぐ。
排他主義、保護主義の台頭、力による支配を求める時代。
(3)「何をしてもよい」自由。善悪の判断が超えられている?
自由な個人。自己責任を求める世界。個人の欲望を満たす消費社会。人間関係の希
薄化は、社会の中での共通の価値観や倫理の感覚を弱くする。「良心」が薄らぐ。
あからさまに、「なぜ人を殺してはいけないか」 が言葉になる。
私たちは、自由を満喫しているようだが、本当の意味で「自由」なものなのか。
2.ルターにおける自由と悪
一般に中世において「自由」が語られてきたのは、人間の「自由意志」の問題。しかし、ルターが語るのは「魂の自由」。しかし、プラトニズムのように魂だけの自由を語るのではない。むしろ、信仰における魂の自由がこの世に肉を持って生きる新しい生き方、愛と奉仕に生きることを実現する。
(1)自由の問題
アウグスティヌス以来の中世の伝統⇒ルネサンスにおけるあたらしい人間
こうした人間中心的なオプティミズムは、人文主義へさらに近代へとつながってい
く。人間賛歌と自由意志⇒エラスムス自由意志について:ルターとの論争。
(2)悪の問題
ルターの奴隷的意志の強力な主張⇒すなわち、罪意識の徹底!
「悪い欲望」 に囚われていること。いっさいの虚しさ。
(3)キリストの勝利
キリストの十字架⇒逆説的な力。
魂はみことば(キリストの福音)において満ち足りる
キリスト者は、確かに、この勝利に与っていて、完全に魂の安らぎを持っているが、魂だけの存在になるわけではない。だから、この世界においては「愛と奉仕」を積極的に生きる。しかし、そのことは、必然的に悪魔の支配にいつもさらされ続けるということでもある。そして、そのことからの完全な自由は死と復活のときまでは得られない。それゆえに、義人にして同時に罪人!
3.現代の「悪」の力とキリストにある自由
罪・悪の支配と神の支配の二つの世界を同時に生きている。その同時性に耐え、なおかつキリストのみ業への参与をいきることが求められ、またそのように生かされているのがキリスト者であると言えるのだろう。
(1)罪と悪の具体的な支配のもとにある人間
① 人間共同体・自然関係
功績主義・成果主義による関係の破壊
② 組織的・社会的構造的悪と個人
関係の抽象化と無責任 弱者とマイノリティへのしわ寄せ
こうした悪の支配を象徴するような「核」の問題。「核」そのものは、絶対悪ということまでは言えないかも知れないが、これを用いる人間には、戦争利用にしろ、平和利用にしろ、これを確かにコントロールする力は無い。逆に、これによって支配されるだけということが現実ではないか。
ただ、その現実を変えていくことには、理想を叫び、それを絶対善として求めるだけでは解決しない。むしろ、時間をかけてこの矛盾を抱きかかえる以外にないのかもしれない。
(2)一人ひとりの魂を包む暗やみ
① 関係の希薄と生きる意味の喪失
あらゆる人間関係の希薄さ 隣人への無関心
② 欲望の増殖と虚無
経済活動はそれゆえほとんど重要な意味はなく、虚しい。
③ 「暗やみ」「鬼畜」 聖なるものの喪失
暴力と破壊衝動 死の欲動、憎悪のエネルギー
(3)「キリスト者の自由」
矛盾を抱えている自分を受け入れ、「すべてを抱きしめて生きる」 ために
この現実のなかで、ただ「キリストとともに」 というルターの主張!
① みことばを受けることのなかで
律法:「わたしたちのいっさいが無」
福音:「わたしたちにひつような全てが与えられる」
「すべてのものが働いて益となる」
② 無力さのなかで
キリストと共に十字架を生きる
苦難を引き受けることと他者のための生へ
一人ひとりが小さなキリストとして、このみことばを生き、とりなしと証
しによって、みことばを分かち合う。
悪の支配する現実に耐え、なお確かな安らぎを受けて、
終末に約束された、神の国(支配)における正義と公平、平和を見通して
神のみ業への参与へと応答する。
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