今年の3月11日のルターナイツに20分という短い時間でお話した、「今、見えないものを曇りなき眼で」〜宮崎駿の問いかけを受けて3・11以後を生きる〜を、今日は本郷教会で80分バージョンでお話しさせていただいた。
レジュメとしてお配りしたものを記録としておきたい。お話ししながら、改めてアシタカが身に負った「のろい」のしるし(スティグマ)の意味を考えさせられている。
新しい理想の未来(時代の中で差別され、人として認められないままの一人ひとりが人間として尊ばれるための世界)を築くというエボシ御前が、その実現のために自然を切り開いていくことを可能にするため放った石火矢の一発の鉄つぶて(自然の非神話化、生産のための資源として対象化し、搾取する)。その一発が「ナゴの守」(自然のいのち)に取り返すことの出来ない傷と死の苦しみ与えた。それが、あのタタリガミ(異常な荒ぶる神)を産み出した。自然と共に活きるエミシ村を襲うのは筋違いといっても、自然の不思議な連鎖に特別な意志も論理もない。「鎮まりたまえ」といっても容易におさまることのない、その恐ろしい勢いを食い止めようとしたアシタカは、死に至らしめる「呪い」をみにうけてしまうのだ。不条理なことこの上ない。しかし、まさにそれが真実な姿だ。
3・11の災害は自然の驚異をとことん思い知らせるものであったが、他方、その時に伴った災害は、自然にたいして人間の文明が与えた決定的な傷であった。自然は苦しみもだえている。それは、いったいどれほどの大きな犠牲を産み出すものであったのだろう。スティグマを身に負うこと。その不条理は、どんな手だてをしても、簡単には救われることはないのかも知れない。けれども、「曇りなき眼」で、その真実をつぶさに見ることだけが、「癒し」につながる可能性という。私たちへ託された使命。宮崎氏の問いかけ。
「もののけ姫」が1997年に公開されたというのは、なんと予言的なことかと思いもするが、ある意味では、3・11のもたらしたことは予測されたことでもあるということなのではないか。
私たちは、キリストの信仰において、この問いかけに真っ正面から向き合わなければならないだろう。私たちは、「キリストの十字架のしるし」を身に負うものだからだ。
人間の愚かしさは、この矛盾をわかっていても、飽くことなき欲望と利潤をもって自らを豊かなものとし、全てを支配しようという誘惑からのがれられないことなのだ。それによって、私たちは、本当は助け合い、自らの肉の肉、骨の骨と尊重するべき他者との関係に破れをもち、憎み争うものとなってしまった。聖書は、そうした私たちの姿をアダムの堕罪として記す。その罪の結果、その子たちもまた関係に破れを増幅させ、羨みと憎しみをまして、カインはアベルの血を流す。大地はさらに呪いを吸い込んでいく。そして、大地はもはや作物を産み出すことがなくなり、カイン(人)は地上を彷徨うものとなった。
「もののけ姫」のアシタカは関係をつなぐ存在だ。彷徨いつつも、それぞれの生の真実に触れようとする。「曇りなき眼」で見極めようとする。エボシが自分の生い立ちの中に抱えていた苦しみから、しかし、「理想」を目指す新しい歩みをとった真摯な思いを受け取る。人間に恨みを満ちつつも、人間である自分の宿命を抱えたサンが、森の神々こそ、小さな人間をもその一部とするはるかに大きないのちの営みの確かさを守るものと知っている、その真実をアシタカは受け止めている。そして、どんなに刃を向けられても、「そなたは美しい」といって、サンのいのちの尊厳を慈しむ。そして、エボシのタタラバと神々の森とが共に生きる道を求め続けるのだ。
映画の最後は、サンとの再会を誓い、今はそれぞれの場所に留まって、しかし、繰り返し、新しい道を探ろうとする。このように、そこに踏みとどまる力はどこから来るのだろう。彼に与えられた「スティグマ」が、不思議な「力」になっているのかも知れない。けれど、本当は、「力」に頼る愚かさをこそ、エボシの姿に描いたはず。宮崎のなかには、なお解けない問いが残されている。
カインの末裔としてのしるし…私たちは、その苦しみの中にあるのか。けれど、神は私たちを決してあきらめない。こんなにも、神から遠く、御心にそぐわない私を愛し、求め、赦し、生かしてくださる。絶望の中に希望をもたらすように、ご自身がこの絶望の只中においでになっている。それがイエス・キリストの出来事が示す啓示なのだ。けれども、ここには「無力さ」のみがある。人間の「弱さ」がある。十字架の愚かさ。そこに、ただ、他者とともに、他者のために生きる十字架のことばがある。
このことばに与るものは、自らにキリストを、その死といのちを、その十字のしるしを新たに与えられる。無力さ、よわさ。しかし、愛すること、つながることにこそ言葉を持っている。赦しの中に生きる道。赦されて、赦しへ。長い、長い道のりかも知れないが、その確かな歩みの中に生かされていく。だから、このしるしを負うものは、共に、あの方の御心にむかって歩むのだ。
「今、見えないものを曇りなき眼で」
〜宮崎駿氏の問いかけを受けて、3・11以後を生きる〜
1.自然と私たち
(1)驚異の自然
美し国、いのちの豊かさ、神々の世界
(2)自然の驚異
台風、地震、津波… 荒ぶる神
(3)自然への驚異
平和利用という神話の崩壊
2.アシタカのスティグマ
(1)宮崎駿の問いかけ
ファンタジーを通して、語る強いメッセージ
(2)目に見えない世界の大切さ
合理主義・物質主義の中で見失われていくもの
(3)人間文明と自然の相克関係
理想社会を求める文明と神々の世界
「ともに生きる道はないのか」
3. 十字架のしるし
(1)土の塵から形づくられたものは
神のようになろうとした欲望、関係の破れへ
呪いがおかれた大地、流された血
(2)十字架において
人となられた神を知る、破れの只中にあって
自らを裂き、罪の赦しと和解をもたらす
(3)矛盾の只中を生きる
あらゆる悪に耐えつつ、絶望しない
この身に負う「キリスト」の死といのち、使命をともにする
エボシ御前は、当時の社会で女性や重い病ということだけで差別され、人として扱われなかった人たちが、安心して、しかも自立(自律)して生きる社会を作りたかったのだろう。それは、おそらくエボシ自身が恵まれない境遇で生まれ育ったことが背景にあるに違いない。その理想を実現するのがタタラバだった。製鉄所だが、もともと女人禁制とされていたこの製鉄世界で、女性が主となって労働して社会を作る。その理想を成り立たしめるのにはお金と力が必要とされた。彼女は、その通常の世界とは異なる理想の実現のために「金と力」といういわば通常の世界のたよりとするものをやはり用いたのだ。それが、政治というものだろう。理想の実現のためには、手段は問わないという駆け引きであり、現実主義。そして、実際にあの乙事主たちの捨て身の攻勢にたいしても、自分たちの仲間をも欺いて、死に至らしめても、構わないとしたのだ。大事の前の小事ということか。これは、エボシが本来もっとも嫌悪すべき社会体制の力の用いる常套手段だった。ここに頼らなければならなかった彼女の限界が、このストーリーの最後に明らかにされ、彼女も新しい道をもう一度歩むことへと促されたように見える。
返信削除つまり、宮崎は、エボシが理想とする世界の実現のために結局は「力」に頼ることしかなかった、その愚かさを明らかにし、およそそうした論理に組しない、アシタカの無私の心と共に生きたいという素朴さを失えば、それが人をダメにするということを描いてみせているのだと思う。
それにも拘らず、アシタカがこのストーリーで彼の思いを実現するのは、あの「のろい」(スティグマ)によって得ているたぐいまれなる神秘的な「力」であった。そのしるしのついた腕で放つ矢は人の首を落とし、刀を曲げ、鉄砲で撃たれても簡単には倒れず、しかも重い扉を片手で開けしめる。この「力」。アシタカは、確かに彼自身のありのままの魅力(優しさと知恵?)によっても、人を惹きつけただろう。けれど、窮状を切り抜け、だれをも黙らせ、説得することを可能にしたのは、あの「力」なのではなかったか。この「力」がなくて、彼にはどれほどのことが可能だったのだろうと、思わされてしまう。
その意味で、この「力」へのあこがれを捨て切れないでいる宮崎自身の揺れを思うのだ。そして、またそれを求める多くの人たちの心を、アニメーターとしては用いざるを得ないのが現実だろう。
もちろん、この「のろいの力」は、最後の場面においては消え失せている様子だ。彼は、これからあの「のろいの力」なしで、浅野公や朝廷の「力」からあのタタラバをエボシとともに守ることが出来るのだろうか。このストーリーの続きをどのように語り得るのか。そこにこそ問いは残されている。
それに比べて、十字架は、本来、全くの無力さを意味するだろう。教団はそれを神格化してきたのかも知れないが、本来、この神(神的な力)の無い無力さに隠された神を信仰が捉えるところにのみ、新しい道が示されているのではなかろうか。