ところで、このドイツ行きの最中、一冊の小説と出会った。昨年の直木賞受賞作品で天童荒太の『悼む人』である。しばらく前に友人から紹介され、気にしていたのだが、このドイツでの研究発表が日本人の死生観を問題にしている以上、今の日本でいったいどんなふうに「死」の問題が描かれているのかということを見ておきたくて、出発の直前一週間もないくらいの時に、近くの本屋まで走って求めたものだ。結局、読み始めたら、論文の仕上げをしながらも片時もこれから目が離せなくなるほどに、惹きつけられることになった。こんなに夢中になって小説を読んだのは久しぶりで、おそらく遠藤周作の『深い河』以来のことだったような気がする。最後はドイツ行きの飛行機の中で読み上げたが、その余韻は11日間の長旅の後まで続いたものだから、この小説の力強さを思わずにはいない。(もっとも、自分自身の関心とダッハウでの体験が重ねられた結果ではあるのだが・・・)
主人公の「静人」が、身近な人ばかりではなく、ニュースや新聞で報じられる「死者」を、それが事件であれ事故であれ、記録しながら、その人の亡くなった場所へ赴いていって「悼む」という行為を繰り返す。こう書いてみても、それが何ともおさまりの悪い、奇妙な行動としてしか書くことができないが、小説のなかでも全くそうで、他人からはさまざまに見られ、また言われることになる。しかし、静人にはそうしないではいられなくなった事情がある。また、小説は、この本人をめぐって、さまざまな人生を生きる人間の姿が浮き彫りにされ、「死」を扱いながらむしろ「生」ということを深く考えさせる内容だといってよい。全体を通し、作者の天童氏は、いわゆる宗教という色合いは極力避けながら、それでも、この「死と生」の問題にむきあう真摯な姿勢をもって、徹底した取材をおそらく重ねながら、じっくりと書き込まれたものだと思う。迫力の筆遣いに、読む者はぐいぐいと引き込まれてしまう。
古くて新しい問題を見事に取り上げて、現代の日本社会のなかにある「死」をめぐるスピリチュアルなニーズを浮き彫りにしていると思う。かつて死は日常の家族の生活の中に必然的におこるものとして受け止められてきたはずだが、現代では、その死はほとんど隠されたものとなっている。しかし、また逆に様々な悲惨な事故や事件によって死はありふれたものともなっている。そういう今私たちが直面している死のあり様は、死者が絶えず忘れ去られていくものでしかないことを否応なく示している。生きていた者が死ぬ。それは当り前のことでもあるけれど、しかし、あまりにも早い生者の社会の時間のなかでその死の重みが受け止められきれないで流されていく。そういう社会は、逆にいえば「生」そのものもほんとうに軽いものになってしまっているのではないか。それが人間の「生と死」なのか。そういう問いかけが通奏低音になっているといえようか。
そして、この小説は、もうひとつ、生きるということの中で本当に必要な「和解」というもうひとつのテーマを持っているように思う。生きることは、その人その人がぎりぎり選び取り、引き受けるたった一つのことが現実となって生きられる以外にないのだが、そこには限界もあれば、人を傷つけないではすませられない問題を抱え込まざるを得ない。傷つけられたものはまた、誰かにその傷を引きうつすかもしれない。そんな生のかなしさは、わかりあえないままに人を分裂させるものでもある。しかし、そうなのか。切り裂かれた関係はもう決して修復されないのか。癒されないのか。しかし、本当に生きること、そして、死にきることのためには、もう一度、この人間関係の深い傷がどこかで抱きしめられなければ、そこにまなざしが注がれなければならないのだと、この作品は語ってくる。
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