毎年6月に行われるルター研究所主催の「牧師のためのルターセミナー」が、今年も三浦で行われる。
今年のテーマは「洗礼」である。
教団で「聖餐」の問題、とくに陪餐資格の問題が論議をよんでいる(現実には、それぞれの立場に立ったところでの主張がなされているということで、議論できないでいる現実こそが問題なのだが)が、この「聖餐」の議論は本来は「洗礼」の問題と深い関係のなかでこそ問われるべきものだ。ルター研の同じセミナーではすでに2年前に「聖餐」については取り上げてもいるので、今回はこの「洗礼」というもう一つの礼典について深く問い直していくことになったものだ。
「聖餐論」にしても「洗礼論」にしても、日本のようにキリスト教人口が全人口の1パーセントであるというコンテキストをとらえてこそ、問題として改めて論じられる価値がある。つまり教会が宣教する教会である限り、そこに来る人々にはキリスト教に接することが初めての経験であり、ノンクリスチャンであるということを当然のこととして考えるべきであるのに、教会の神学も実践もそうした経験を遥か千七百年位前、ローマの公認宗教となり、国教となったこととともに失っていった西欧の教会から学び、まねることでしかなかったために、改めて自覚的にこの現実に対する対応の用意がないのに驚いているという状況なのだ。
その問題は本来、信仰の道筋の中で問われなければならない問題である。だから、当然に長い歴史の中で整えられた信仰の教え、教義的な枠組みのおいて確認されるべきことなのだ。しかし、現代はもうひとつの問題として、人間が長くある種の前提としてア・プリオリに認める神とか信仰とか真理ということばが意味を失ってきているという現代に特有の問題を同時に抱えていることを考えなければならない。つまり、今日改めてキリスト教の教理的な課題をとらえなおすというときの問題の様相をしっかりと分析しとらえなおしていくときにこそ、こうした問題へのとりくみが生き生きとして私たちの信仰の糧となるのだ。
今年のセミナーのスケジュールは以下の通り。
https://docs.google.com/Doc?docid=0AVbecUkt2EkoZGhidGRuNXpfM2cyNmg4cWdk&hl=en
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