大学の東門にカンヒザクラが咲きました。
地震以後の対応で、大学は休校し少しずつ「通常」にもどっている。冷たい風が冬を呼びもどしたようだけれども、確かな春の兆しをあちこちに知ることができる。
春を思う余裕などどこにも見いだせない。心は騒がしく、気持ちは落ちていても、それでも確かな時のおとずれは、あの詩編の作者が深い闇の中で暁の確かさに神の恵みを思い起こしたように、私たちがなにを見るべきかを教えてくれるようだ。
恵みの確かさ。
けれど・・
その確かさ・・・を私たちはほんとうにうけとれているのか・・・
「神を恨みます」という言葉にこそ、真実の叫びを感じながら、なお主の救いを分かち合う言葉をどのように持ちえるのか。
四旬節、レントを迎えている私たちは、しかし、今年のこの季節に
今まで、繰り返された問いの前に立ち尽くしつつ、
主の受難の道行を思い、もう一度自らの信仰を確かめる言葉をもとめている。
多くの悲しみと苦しさをやはり他人ごとにしか感じられていない罪深さを思う自分。
同時に、連日の報道を体の奥をよじるようにして感じている自分。
この自分というものにとらわれたもどかしさを感じて、なおこの自分を与えられているということの意味を新たに見いだしたいのだ。
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