去る、3月6日、東京教会にて、教職受任按手式礼拝が行なわれた。
日本福音ルーテル教会は、市原悠史氏と浅野直樹氏の二人に按手を授け、牧師として教会の宣教と牧会の現場へと二人を派遣した。按手の重みを深く思うばかりであった。
牧師を志すものは自らが教会の様々な働きに仕えるべきことを考え、神学校での学びを研鑽を積んで教師試験、任用試験を受け、この按手を受けることになる。しかし、これは決して本人の資格や免許の獲得ではないし、また牧師という働きへの就職関門なのではない。
神の召しと、教会による委託の重みを、この按手礼拝において再確認をさせられる。
牧師は、いったいどうして牧師であるのか。
彼は、神のコールによってのみその任に当たるが、そのコールを今は教会を通して受け取るのだ。
だから、教会が牧師を召しだすといってもよい。
ならば、教会はいったいどのように具体的な一人ひとりを牧師として召しだしているのだろうか。
逆に、その人に与えられた神の召しを教会はしっかりと本人と共に受け取っているのだろうか。
今の現実の中で、牧師養成の現場にあって、牧師養成ということの本当の難しさを実感している。
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