2020-06-10

今、神学すべきとき  日本福音ルーテル教会の今を記録しつつ ③

大柴議長は、その談話において、ボンヘッファーの「交わりの生活」をひきながら、教会において集まることができることを当たり前のことではないこと、それがいかに恵みに満ちたものであるかを深く覚えるように示し、たとえ物理的な距離があっても霊的なつながりと交わりに生きることができることを確認するように促している。

このウィルス禍の中、私たちは厳しい状況に置かれてきたことは確かなのだが、その中で信徒一人ひとりが霊的な自覚と成長の機会を与えられてきたようにも思うのだ。それは、教会がその地域に教会として与えられていることを深く問いつつ、またその自覚を促すものであったと思う。繰り返しになるが、この礼拝をはじめとする活動自粛は、決して教会に集まる者たちだけのためではなく、地域社会に対する責任を自覚したものであったし、信徒一人ひとりは導かれて、絶えず病の中、いのちの危険の中にある人たち、医療・福祉従事者、また社会的に弱い立場にあり、感染の不安や恐れの中にある人々のことを祈り続けてきたはずだからだ。また、小さな働きではあるかもしれないが、地域社会の中で現実の困難を生きる一人一人を支える働きは営まれてきた。関連施設ではもちろん、牧師も信徒もこの一人を放ってはおけないと手を差し出してきたし、逆にしっかりと捕まえられて、励まされたりもした。
しかし、それだからこそ、この状況の中、私たちの教会が今どういう姿であるのか、何を生きているのか、確かなことばをもって語っていかれるように、改めて問われていると思う。

【問われる「福音」宣教】
ポスト・コロナの時代は、確かに大きなチャレンジを受けることだろう。しかし、それはある意味で、このウィルスの脅威がなくてもやがて訪れるべきであった事態が加速度的に進むという類のことではないだろうか。
もちろん、しばらくは具体的に教会の中でのソーシャルディスタンスをどう取るかとか、消毒や手洗い、マスクなどの慣行が求められるなどのこともある。コロナとともにどう教会は活動するかという新しい様式が必要だ。しかし、あらわにされた問題は、こうした新しい様式がひと段落した後においても、そして、例えばこのウィルス問題が発生しなかったとしても、どちらにしてもいずれ教会が正面から向かい合わなければならない課題であったと思う。
少子高齢化ということだけでなく、現代日本における宣教の困難は、旧態然とした教会のありようが、現代を生きる人々の苦悩に福音を届けることに追いつかないで来たということではないだろうか。私たちは、生活のあり方、働き方、娯楽の持ち方などあらゆる文化・文明が大きく、そして急速に変わる節目に生きているのだ。


【教会の基盤の変化】
教会は、それぞれの地域社会の中で宣教の働きを担うように立てたられている。神のみことばによって信仰へと呼び出され、恵と愛の力に生かされて、相互の交わりに支えられつつ、さらに地域社会への宣教を生きるものである。信徒は、この間に自分たちが集えないという現実の中で、コミュニティとしての教会であることへの渇望を新たに覚えたことだが、同時にまたその教会が地域社会の中に置かれていること(派遣されているということ)に意識が向けられてきただろう。
ところが、21世紀に入ってからの、人間の限界を超えるようなICTAIの劇的な進歩とその利用の広がりは、単に産業の問題としてではなく、一般市民の生活のあらゆるレベルにおいて、いわゆるグローバル化という現実をもたらしてきた。そうすると、世界の一地域や特定社会、あるいは国の問題は、そこに止まることがなく、須く地球規模の問題となる。まさに一地域で発生した感染症が世界規模のパンデミックになるのが現実である。インターネットを使うことで、地球の裏側とのコミュニケーションだって、わずかなタイムラグを思うだけで、ほぼ同時双方向のやりとりが可能となった。
そういう現代世界で、地域教会とかコミュニティとしての教会といっても、そもそも「地域」とか「コミュニティ」という言葉で表してきたことの意味が根本から問い直されているのだ。実際に、また私たち日本の教会においては、教会のある地域ということと信徒の生活圏とは必ずしも一つではないという実情がある。特に都会の教会では、遠距離を通う教会信徒の交わりは、地域社会とは直接に関わることの希薄なコミュニティを形成していることが多いわけだ。
そうした実情を考えると、現代世界の中で私たちは、何をもって私たちのコミュニティとしての性格を生き、どのように地域社会への宣教を担うのかということには大きな課題がある。(しかし、また可能性もある!)

【社会の課題の中で】
また、この感染症は、いつの時代でもそうであったように、貧困層に非常に大きな被害をもたらしている。現代の格差世界で、誰のいのちが守られて、どういう人たちのいのちが切り捨てられているのか。そうした問題があらわになっている。貧困の世界的な構造、グローバリズムの歪みの中から生まれてきた自分ファースト、排他主義の広がりは世界中で差別と暴力をもたらしている。そして、それは私たちの生活の只中にさえ根を張っていて、見えない貧困が蝕み、親子の間にも学校の中でも暴力が陰湿に支配しているのではないか。嘘やごまかしで、力の強いものが不正を行い、利を独占して、支援の仕組みの中でさえ、奪い取ることが横行している。
あるいはジェンダーの問題、結婚や離婚、家族という私たちの人生に深く関わるこれまでの概念と価値は揺らいでいて、一元的な理解に固執するよりも、多様なあり方を認め合い、共存していくことへと誰もが積極的な責任を担っていかなければならない。世帯ごとに一括りにされていく現状は、おそらく深刻な課題を家族という伝統的な単位の中に抱えている現実に合わないだろう。にも拘らず、社会の仕組みはやはり保守的で、必要な支援が個々に行き渡らず、かえって苦しい現実を背負わされている実情が見えてくる。

【問われている神学】
こうした急速な世界の変化の中にあって、伝統的なキリスト教の神学や教会のあり方が対応できていないのが実情だろう。だから、誰に向かって何を伝えるのかということに、自信も方法も見失っているのではないか。福音信仰が誰のためのものになっているのかということだ。今、この世界が一つに結び合う時代だからこそ、その只中で困窮する人、悲しんでいる人、病の人、DVや虐待の現実を抱える家族、幼い子どもたち、高齢の方々、生まれや肌の色、文化や宗教などの違いによって差別されている人たち、ジェンダーやエスニックマイノリティーであるために見失われている人たちなど、全ての人たちのいのちと尊厳を守り、共に生きるための教会、神学であり得ているのか、と問われている。
改めて、この現実の中で、私たちに突きつけられている事柄は、この現代世界に対する「福音」の理解とそれをどのように分かち合うのかということに対する根源的な、そして極めて実践的な神学問題であるのだと思うのです。

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