2020-06-09

今、神学すべきとき  日本福音ルーテル教会の今を記録しつつ ②

教会、牧師、信徒は何を受け取っているか。

教会がどのように変わったかというと、いまだコロナ禍真っ只中なので、それを論じることは早計だろう。ここ4月から礼拝に集えないということは非常に大きな経験だ。しかもこの季節。聖週間もあり、イースター、そして主の昇天、ペンテコステと続く大事な数週間の礼拝を教会に集えずに過ごしたということになる。このような経験が、信徒の中になにをもたらしているのか。
もちろん、集会も行えないし、バザーなどの行事も行うことができない。当然、教会の活動ということはそういう意味で言えば全体として冷え込んでいる。教会の経済的な問題も含めて、これからの教会のあり方に様々な影響を与えることは間違いない。


               

【苦悩と熟慮】
主日の礼拝を自粛する。およそ教会の歩みの中で経験したことのない判断をどのようにしていくのか。社会の情勢の中、牧師も信徒も苦しんだに違いない。礼拝の中止などということがそもそもあり得るのかと、問わなかった教会はおそらくないといって良いだろう。どのようにしたら、礼拝を続けることができるか。教会そのものに消毒や換気、社会的距離を作るなどの物理的工夫、礼拝の簡素化、聖餐式を行わないことや賛美歌を無くすといったソフトの面での調整などすぐに取り組まれたと思う。しかし、いずれにしても遠くから集まる信徒たちの状況を考えれば、感染の危険がどこにあるかわからない。しかも、個人に自粛を求めても、教会が礼拝を行う限りは絶対に休むことをしない信徒の気持ちがある中で、牧師も役員も苦悩し、熟慮した上で、自分たちの教会のあり方を決めていったことだ。もちろん、中止ということだけでなく、役員とか、特に近隣の方のみの出席する礼拝をまもった教会もある。けれど、これほど礼拝について、教会員の現実について、役員会は話し合い、こんなに祈ったことはないと思うほどに時間を費やしたことだろう。この経験が、これからの教会の歩みに力になるに違いない。

【牧 会】
ただ、そうした現実の中において、牧師にとって、そして信徒にとっても牧会という視点が改めて非常に大きくなってきたと言えるように思う。これまでにまして、牧師は信徒との距離について考えてきたことだろう。毎週礼拝に集うことで、顔を合わせているだけでも、お互いに受け取ったり、渡したりするものがあって、牧師は牧会のひとつにしてきたはずだ。もちろん、それだけで済むことではないのだが、忙しい都会の教会においても、兼任体制で複数の教会に牧師が責任を持つことの多くなっている地方教会においても、週日に牧会的交わりの機会を持つことがほとんどできなくなっている中、礼拝に集う、そして午後の交わりを過ごすということが数少ない牧会の場となっていた現実がある。
ところが、礼拝に集まるということができなくなってみると、改めて信徒一人ひとりとのつながりについて、牧師たちは心を砕いてきたはずだ。もちろん、牧師が訪問をすることも難しい現状だから、手紙や電話、メールなどを使って繋がりを確かめてきただろうし、新しいところでSNSを使っての相互の交わりを実現してきたことだろう。配信されるものが、説教であれ、週報であれ、それをひたすら読むことが、信徒の日課にもなってきただろう。こうしたやり取りに、牧師は細やかな祈りによって、信徒と出会ってきているようにも思う。
もちろん、そうした取り組みに限界がある。全く触れ合うことができずに過ごしている信徒同士、牧師と信徒との関係がある。だからこそ、再会の時が切望される。そういう私たちが教会を再認識しているのだ。

【礼 拝】
 礼拝については、オンラインによる配信ということが多くの教会で取り組まれた。これまでも礼拝や説教の配信に取り組んできた教会もあるが、数で言うと本当に限られたものに過ぎなかった。しかし、今は、主日礼拝に集えないという現状に合わせ、多くの教会でインターネットを利用してそれぞれ自宅にとどまる信徒を支える礼拝、また説教の配信が取り組まれている。ただ、それは教会に集うことができない者たちも、それぞれの場で主の霊的な臨在に繋がれ、結ばれたひとつの主の体にあることを覚えることができるようにとみことばが届けられるものとしての利用ということぐらいに留まって理解されている。インターネットを利用できない方々には、説教原稿と一人で祈り過ごすための手引きなどがとどけられているから、紙媒体で説教を届ける牧会の働きに準じた理解だといって良いのだろう。議長談話では、このインターネットでの取り組みを礼拝と呼ぶとか、そこでの聖餐の可能性などを論じることは控えられている。むしろ、一人ひとりの黙想や家庭での礼拝に益するものとして届けられているのだ。そうでありながら「一人自宅で礼拝を守っていても、それは天地を貫く「公同の教会」につながる主の日の礼拝です」(「牧会書簡」411)と、大いに一人で過ごす信徒にキリストに連なる慰めと励ましを語ってもいるのである。
実際、そうしたネットを用いた複数の教会の同時礼拝、あるいは連携の中で届けられる聖餐の設定辞が有効かどうかは、実はこのウィルスの問題が起きてくる以前から、地方教会における複数兼任の体制の現実の中ですでに取り上げられていたアジェンダの一つでもあった。礼拝が、主の招きによって集い集まり、共にみことば(説教と聖餐)に与り、祈りあい、証を分かち合って、また派遣されていくという動的なものであること、また実際の人間の身体的な限界性や有限性を抱えても共に生かされていく礼拝のリアリティによって、教会のコミュニティの形成があるということは、おそらく誰にでもわかることだろう。しかし、様々に制約された現実とそうした現実の中にメディア・テクノロジーがもたらす新しいコミュニケーションの時代、私たちは、一人ひとりを生かす神のみことばの奉仕の力に信頼しつつ、これまでの礼拝に新しく開かれた可能性をむしろ積極的に考えていく時なのかもしれない。しかし、いずれにしても、早計に断定的に語る言葉を置かない慎重さは、現実の対応の中では大切なことだと思う。

【信仰と霊性】
しかし、こうした状況の中で、実は信徒一人ひとりには、教会の本質を問い、自らを捉え直していくきっかけを受け取っているように思う。元気で活動できることで教会の一員として生きる喜びのようなものを受け取ってきた信徒たちが、しかし教会にいくことができないという規制の中で、実は集えないでいる一人ひとりのことへと深く心を寄せるようになってきたのではないかと思うのだ。そして、互いに安否を確認しつつ、会員相互の牧会的祈りが祈られてきた。
また、静かに世界の中にある自らを省みて、会うことのできないでいる信仰の友を思い、また今の世界の苦しみや悲しみに心を置いて、みことばを聞き、黙想し、祈る。そういう時を、それぞれの信仰者が大切に思い主日の朝を過ごされた。礼拝に集い、諸集会を行い、奉仕をし、諸々の活動に元気に参加するということだけでものを見ていたかもしれない自らの信仰生活の姿を問い直し、沁み渡るような信仰を思うようになったのではないか。私自身も、主日の朝早く、みことばに黙想し、祈り、生かされる恵みを受け取ってきた。
もちろん、現実の教会での交わりが薄くなり、教会生活の意識が遠くなり、自らの信仰の弱さを実感する者もあるだろう。そういう状況もまた、私たち自身に神と信仰を問うきっかけであると思って良いだろう。神が一人ひとりを忘れることは決してないのだから。
ただ、ネット上に溢れるようになったたくさんの説教に触れながら、いつしか信徒が自分に心地良いもの、思いを満足させてくれる説教を求めていくような傾向が起こっていないか、注意が必要かもしれない。説教は、喜びも悲しみもキリストを通して分かち合う聖徒の交わりの中、牧師も信徒も共に主の語りかけるみことばに聴くことによって紡がれてくるものだ。もし、私たちが自分を満足させる説教にのみ耳を傾ける消費者になっていってしまったとしたら、信仰も教会も崩れてしまいかねないと思う。
だから、こうした厳しい現状の中で、私たちは、牧師も信徒も、新たなチャレンジを受け取っているといって良いだろう。このウィルス感染そのものは身体的な問題ではあるけれど、それを通して同時に霊的な試練を様々に経験しているのかもしれない。だからこそ、私たちは、主のみことばに生かされる恵みをしっかりと確認し、また分かち合う宣教の働きへの使命を受け取っていくべきなのだろう。

続く・・・

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