2020-06-10

今、神学すべきとき  日本福音ルーテル教会の今を記録しつつ ④

【伝統的神学と】
こうした神学の課題に取り組むとき、私は、二つのことを考えるべきだと思っている。
まず初めに、従来の伝統的神学にしっかりと学ぶ必要がある。そして第二に、これと相矛盾するようにも見えるが、伝統的な神学に対して、私たちはいつでも批判的であるべきだということだ。この二点についてここで詳しくは論じることは必要ないだろう。神学はどの時代にも、その向き合う現実の中で、神の福音を聞き取り、現実に抗しても実現すべき福音宣教のために言葉を紡いできた。だから汲み取るべき神学的格闘の成果が伝統的神学の中にある。しかしまた、こうした神学的営為はいつでもその時代の子でもあって、歴史的限界性をもつのだ。その時代の人間のことば、人間の考え、文化の限界性の中に置かれている。だから、いつでも相対化されるべきだし、批判的検証を必要とする。
だから、より古いものが純粋であると断ずることもできないし、新しいものが優れているわけでもない。しかし、長い歴史に耐えてきた教義には、鍛えられた神学の重みがある。丁寧にその教理をめぐる歴史的議論を確認していくなら、私たちは新しい議論などが果たして可能なのだろうかとさえ思う。だからこそ、しっかりと学ぶ。


それでも、大事なことは、この大きな時代の転換点の中で、神学的にも実践的にも、既製の何かをもって対応しようとすることの危険について知っておくことである。新しい時代が到来している中で、権威的に何か一つを絶対化して主張をしようとすると、それは必ず他を裁く傾向を持ち始める。しかし、私たちの信仰もどのような神学も、歴史的限界性を完全に克服することはできない。だから、新しい何かが起こってくることを、軽々に判断してしまうことは避けるべきだと思う。むしろ、そうした事態をしっかりと確認しながら、実践的取り組みを神学的に検証していくことが必要だなのだ。そうして、長い神学の歴史の中に重ねるに値する、一つの言葉を見出すことができれば幸いだ。

【Lex orandi, lex credendi 祈りの法は、信仰の法】
この間、私たちの教会の総会議長は、例えばインターネットを使った礼拝の配信のみならず、様々に利用されてきたネット会議や集会など、新しい「つながり」を、「新しい領域の創造」であり、「人間の持つ可能性の豊かさ」という言い方で積極的に捉えている。礼拝とはこういうものだとか、教会とはこうだという「あるべき論」で語り出すと窮屈になり、特定の人たちやその実践を「神学」によって周辺に追いやってしまうことになりかねない。
現実に対応した多様な実践は、どうして、なんのために生まれてくるのか。それはどんな効果をもたらしたのか。その実践の課題や問題は何か。広い議論を作って検証していく時間が必要だと思う。人々が、どのように礼拝に招かれ、これに集い、みことばに与かり、聖徒の交わりが作られて、また日常に、つとめに派遣されているか。礼拝のダイナミックスは、教会のダイナミックスだから、より大きな視点をもって、そこに生まれていることを丁寧に見ていきたいと思う。
「祈りの法は、信仰の法」と言われる。実践の中でこそ、私たちの信仰の内実がよりはっきりと鍛えられてくるだろう。実践を確認しながら、今度はことばを鍛える。祈りと信仰、実践と神学、その相互のダイアローグはやがて定式化するかもしれないし、時代の中で淘汰されていくのかもしれない。慌てずに、ここからの行き先は主に委ねつつ、しっかりと議論を重ねていきたいものだ。

【イエス・キリストを問いつつ】
もちろん、どれほど時代が変わったとしても、人間の救いが、イエス・キリストの十字架と復活においてもたらされたというキリスト教の根本が変わることはない。だから、人間が何者であるのか、なぜ救いが必要なのか、どうして救われていくのか、ということについての根本がイエス・キリストであるということは変わることがないのだ。ただ、もちろん、そのことについての私たちの理解が深まっていかなければならない。いや、イエスとは誰か?その問いをキリストと告白することのうちに見出してきた信仰を今一度、私たち自身が問い直していくのではないか。
そして、おそらくそれはこのキリスト論的な議論の中で、私たちは私たち自身と救いについて、今一度この信仰が何かということを告白的に語ることばを見出すことになるのだ。さらにいうならば、人間の身体性や弱さ、罪や病や死という否定的に考えられる人間性を、むしろ「救い」という言葉の中に抱き取ってきた十字架の神学の深さを、キリストの体と言われてきた教会という脈絡の中で再考すべきなのだと思っている。これまでの神学が、その時代にどうして福音を受け取るためにその言葉を選び、どんな問題に格闘し、議論をしてきたのかに学びつつ、もう一度、それらをひっくり返して、私たちの現実の中で、私たちが鍛えられた神学の言葉として紡ぎ出さなければならないのだと思うのだ。
今、教会は神学すべきとき。実践的に自らの信仰を捉え直しつつ、教会を問い、礼拝を新に受け止め、私たち一人ひとりが生かされていく姿を自ら言葉の中に写しとり、検証していきたいものだ。きっと、この経験は私たちにとって次の時代を拓くものとなる。主に仕え、このもっとも小さき人たちに仕える神学こそ、終末の希望に歩み続けるものだと、そう思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿