最初にこの本を手にした時は、まだ学生だったように思う。そして、そこに描かれていた文章にやや退屈な思いで目を落としたのだったのではないかと、当時の読書の力の足りなさだけが思い起こされて、恥ずかしい。
もちろん、正直に言えば、このタイトルが表すような真の牧会者、魂への慰めと力を与えるお方は、ただ十字架に受苦し、死にたもうたイエス以外にはないという、おさだまりの理解の中に閉じこもり、そのイエスと共に苦しみつつ「私」もまた一人の牧会者となるのだという覚悟も少なかったためであろう。そして、現代という時代を生きる自分も人々もどのような苦悩の中に投げ出され、生きているのかということに目が向かなかったのではないか。
ナウエンは1972年にこの著作を出版して、日本語に翻訳出版されたのが1981年だという。私の神学生時代にはまさにこの本が出版されえてまもない頃だったわけで、当然必読書の一つとして紹介されたわけだ。
けれども、ここに描かれたナウエンの、時代の魂を読み解く深い知恵、そしてその現実に生きる一人への牧会的働きへの探究の鋭さを丁寧に読み取ることができなかったのが悔やまれる。
久しぶりに、改めてご紹介を受けて、私も改めてこの新訳を手に取って、引き寄せられるように読み終えた。これをナウエンは50年前に書いたのかと思うと驚きだ。
是非とも、お読みいただきたい書。
今回改めて興味深く思ったのは、ナウエンが引用した現代についての研究で、ロバート・J・リフトン『終わりなき現代史の課題ー死と不死のシンボル体験』(原著History and Human Survival :Essays on the Young and the Old, Survivors and the Dead, Peace and War, and on Contemporary Psychohistory, Random House, 1970 )や、ディヴィッド・リースマン『孤独な群集』(1950)などの古典が、古典とは思えぬ鋭さをもって現代を切り開いてみせるところだ。それらに導かれつつ現代に生きる私たちの魂の問題を見事に描き出しながら、ナウエンはキリスト教的霊性をもってこの課題に誠実に向かい合うということを模索していく。
考えてみれば、この50年は、経済においては、オイルショック、バブル崩壊、リーマンショックと浮き沈みを繰り返し、東西の壁が崩壊し、グローバリゼーションによって世界は多極化・複雑化してきた。気がつけばアナログ社会はデジタル・AI世代に変わり、世界の中で人と人との関係が変わり、物流が変わって、生き方も大きく変化してきたのだ。70年代初めのこれらの研究が今もなお有効であるということは何を表しているのか、改めて考えさせられる。
もちろん、原著が第2版に改められた2009年に、その著作における表現が時代にそぐわないものとなったとして、とりわけジェンダーに関わるものを中心に丁寧に改められている。そこに、普遍的価値を持つものも時代的な限界の中で異なる表現のうちに閉じ込められるという現実があることを認識させられるわけだが、いずれにせよ、この著作の意義を失わせるものではない。
急速に変わっていく私たちの現実の中でも、ゆっくりとこの現実に晒されてきた私たち。助けが必要なのは、誰かなのではなく、私自身なのだ。問題の只中に自らがあることを自覚しつつ、他者に対して逃げずに向かい合う誠実さは、必ずや自らを傷つけずにはいないのだけれど、そこでこそ、共に生きることへの「わたしたち」の希望が見出されてくる。
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