2023-07-04

臨床牧会セミナー「暗闇の中で:助けを必要とする牧会者」3

3.牧師が求める助けとは

こうした教会の置かれている暗闇の深淵において、牧師は日々忙しく「仕事」に追われ、 「牧師である」というよりも「牧師としての働きをいかにこなすか」ということで身を粉にしている。求められることは多いが応えきれず、失敗を恐れ無難にこなすことに懸命となり、霊的にも満たされることがない。だから牧師はいつでも自分の働きも、また信仰そのものにおいても自信が持てないし、不全感を持っている。現場の牧師たちが、暗闇の中に悲鳴をあげているのではないか。

教会も神学校もその現実に応えようと苦慮し、こうしたセミナーや研究会を企画する。し かし、牧師たちの積極的な参加を得ることは難しい。牧師にとっては、再教育とか研修とか言 われると、多忙さに加えてこれ以上はできないと腰がひける。いや、そもそもこうした研修の場が、癒しや喜び、励ましを得ることよりも、何がしかの評価を受けるような感覚に陥るのではないか。研修やセミナーに参加することで自らの至らなさに気付かされる一方、そこで具体的な力や助けを得られるのかという思いもあろう。牧師としての正しい務めやあるべき姿を学ぶ中で、自分自身に否定的な評価を受け取ってしまうことさえあるかもしれない。

教会にはある種の規範が働いていて、信徒も 牧師も毎週の礼拝と教会と信仰生活を規則正 しく送り、祈りと奉仕に熱心であることが求められ、それを喜びとする明るく元気で聡明な奉仕者が評価される。弱さを見せられず、苦しく悲しい人が行きづらい場になっているのではないか。そして牧師もまたそのような価値意識や規範に縛られているのかもしれない。

だから、実際に、私たちは教会においても、あるいはこういう研修においても人の目を気にしないではいられないし、自分の問題や家族の問題といった暗闇を誰にも打ち明けることができずにいる。そこに、神の福音を分かち合う力は湧いてくるのだろうか。私たちは祈り合うことができていないのではないか。互いに深く霊的に助け合えないままになっているのではないか。本当に助けがほしい人が、この場に参加することができないのではないだろうか。

本当に必要とされているのは、現場の牧師たちに対する牧会的関わりであり、支援的スーパービジョンだろう。けれども、これまで教会にはそうした経験も乏しく、作られにくいのが実情なのだ。引退教職や経験豊富な先輩牧師がその知見から意見をする時、きっと若い牧師たちの助けになり、教会のニーズに応えるものとなるとの善意で発言されていることだろう。けれど、そのことが現場の責任を生きる牧師たちに 本当に必要な支援となっているのか、よくよく考えなければならない。助けたいという意図とは別に、牧師たちをある種の評価と管理抑圧の システムの中に身を置かしめているのかもしれないのだ。現代社会が私たちの中に染み付かせた問題かもしれない。

だとしたら、教会は本当に福音的諸関係の結び方、確かな支援となる関わりのための、知識と技術を身につけていかなければならないように思う。


自分にとって、何が問題なのか 何が必要なのか

私たちは、同じ時代に宣教と牧会の務めに生きるものとして、互いにこの管理抑圧的評価社 会という仕組みから解放され、真の福音に与り、確かな支援的関係を構築し実践していくことが必要なのだと思う。牧師も信徒も現実社会に、共に生きることの本当の喜びを味わえるよう に、自らのうちに信仰を息づかせるスピリチュアルワークが求められる。

もちろん、そうしたことがなかなか実現できないこの今の私たちの只中においてだって、神は働かれる。神の牧会はどんなときでも起こるはずであり、拙い私たちの働きや交わりにおいてただって間違いなく福音は働いている。

しかし、私たちの内なる暗闇に必要な助けを互いに差し出し合える関係を作ることが必要なのだ。霊的にも、神学的にも、実践的にも豊かなものを作り合えるそのような交わりを私たちが始められるかが問われている。そのことが、教会の宣教と牧会をこれからの社会に対して意味のあるものとするのではないか。

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