女優、桐谷美玲が携帯電話のCMで、一月の低額使用の値段を年代と引っ掛けて1980年台を垣間見せる。バブル期のディスコ、クラブのボディコンを懐かしく思う人もいるだろう。ちょうど80年代に学生時代を過ごした自分は、改めてあの時代を思い起している。1990年に按手を受けて牧師となった自分は、80年代を丸まる学生として生きたのだ。
70年代の一番終りに大学という世界に入った自分は、今まで何も世界を知らずに生きてきたことを深く自覚させられたものだった。大学には立て看板が並び、まだわずかに残る学生運動の残り火のようなものが、お定まりの言葉で政治的関心をアジるような時代だった。ごくごく単純に、人間への関心と教育学部に進んだ兄の影響もあって教育学を学ぼうかと漠然と考えながら大学生活をはじめたものだった。大学に通って、はじめてこの日本に、今もなお差別・被差別の現実があるなどということを知ったのだった。事程左様に無知であった自分に、今の現実社会をありのままに見るという視野を広げてくれたのは大学という場であったことは間違いない。
大学とは、就職のための準備とか、資格を得るための場所ではなく、四年間という時間が与えられ、学問の世界で「世界を視る」ということを学ぶ時間だと思ったものだ。まだまだみんなが大学に行くという時代ではなかったから、大学に進学するということについては、特別な責任のようなものを受け取ったのは、僕らの時代までだったかも知れない。
そんな中で、史的唯物論、つまりマルクス主義が現代世界を見事に分析して見せるのも心地よかったのだろう、学生たちが自分たちの貧しさとそれでも大学教育を得られた特別な使命感を感じて使命感と自負心をくすぐられるようにして多くの意識ある学生は「民青」、もしくはその系統のサークルに身を投じていった。そんな学友が、高邁に政治的問題関心を僕に話しかけ、しきりに勧誘の触手を延ばしてきたが、そんな輩に限って勉強しないで、カンニングして単位を取ろうとする。真面目な先輩も数名はいたけれど、往々にして語ることがいつもだれでも同じになる人たちの仲間には入りたくもなかった。むしろ、彼らとは違うという意識を強くもっていたと思う。その自分を支えたのはキリスト教信仰であったのは間違いない。大学時代、教会にはほとんどいかなくなったのだが、実は自分がキリスト者であるという強い自意識を生きていたのだったと、今改めて思い出す。いずれにしても、それほどまでに、自分のまわりには、史的唯物論が奉じられていたのだった。
大学の教授もまた、このマルクス主義的哲学思想とそれに基づいた世界革命を民主的な世界の中で実現することをこころの片隅に置きながら、教育の現場で子どもたちの生活と人格の教育、そして歴史的主体の育成を実現することを望みつつ実践と理論の研究を重ねていたように受け取った。政治的な関心も高く、美濃部都政後の「今」を憂い、教育と福祉の重要性を訴えていたし、また日教組や教育研究集会などに具体的な貢献をする熱心な取り組みには、僕も尊敬の心を深く抱き、研究者は常に実践とともになければ意味がないということを知らず知らず習い受けたように思う。
けれども、この80年代の前半は、すでに70年安保から十年経ち、ノンポリ、しらけ、新人類と学生たちの一般的な潮流は実はかなりいい加減なものになりつつあったように思う。ハマトラ、丘サーファーといった姿が街中を歩いていた。みんな似たようなスニーカーを履いたり、スタジャン着たりして。学生の多くがディスコがよい、そして麻雀にパチンコに明け暮れて、後はサークル活動に興じるようなところがあった。それでも就職に困らない。青田買いといって就職の時期には会社から大学の研究室にいい人材を先んじて採用内定を持ち込んで、当時まだ高いパーソナルコンピューター支給の約束などもしてくれるような時代だった。だから、学生は「遊ぶために大学にいる」などと揶揄されることがしばしばであったのは、こうした現実があったためだろう。
実は、こうした現象の奥にあるのは、若者が若者として世界に触れて、新しい理論や世界観をしっかりと自らのものしていくための信頼あるアカデミズムが存在しなかったということであるように思う。72年の浅間山荘事件はまだまだ子どもであった私自身の目にも焼き付いている。当時の学生を燃え立たせたマルクス主義とその革命実践の行きつく先が、あのような私的暴力の中で内部から崩壊していったのを目撃した世代には、世界を丸ごと捉えるような、あるいは自分の存在を根底から支えてくれるような信頼を学問の世界にもはや見出せなくなったということであったかもしれない。
いまだに岩波を小脇に抱えるような大学生活を送る、典型的な文系学生となった自分などは、おそらく少し時代遅れの面白みのない、野暮ったい人間であったかと思う。信頼のおけなくなった学問をかじるより、豊かな現実をこそ楽しむべきという雰囲気が次第に広がっていったのが80年代の前半であったように思う。
83年が東京ディズニーランドの登場ということも象徴的だが、ちょうどその時期に学問の世界に新しい風が吹きはじめる。それが浅田彰、中沢新一らの颯爽とした登場だったように思う。『構造と力』『チベットのモーツアルト』は、大学生協の書籍コーナーに山積みになり、瞬く間に売れていった。知の新しい潮流がここにはじまったような感じだった。けれど、これこそが新しい時代への生みの苦しみのはじまりであったかも知れないと今は思う。
ヘーゲル『精神現象学』やマルクス『経済学哲学草稿』に食らいつきながら、哲学はわからないと音をあげていた自分には、哲学をわかりやすく?手玉に取るように見事に論じていく著者の力量に圧倒されたのを憶えている。
しかし、そんなアカデミズムの天才などに惑わされるなというのが、僕らの教育学研究室の雰囲気ではあったように思う。教育実践に根ざした研究によって、この子どもたちに、困難な世界とまた限りある能力をもつ自分自身に耐え、したたかに生きる力を育てるために、何をどのように教えるのか。そういうことに賢明になっていた現場の教師たちとの話しあいには、浮ついた哲学議論は噛み合ないと言わんばかりだった。
そのころの自分はといえば、なによりもアンリ・ワロンの心理学に没頭しながら、ヘーゲルもマルクスもかじり、チャン・デュク・タオの『言語と意識の起源』とか、ジュリア・クリスティヴァの『中国の女たち」、ルネ・ジラールやイヴァン・イリイチ、パウロ・フレイレなどを手当たり次第に読みながら、現実世界の内実を捉えること、人間が人間としての関係を生きるということは何か手探りをするように学んだものだ。でも、読んでいるうちに頭がついていかなくなって、何のために読んでいるのか、読んだら何が得られるのかもよくわからず、大海に溺れ、迷走を重ねていく。
ただ、そうした時代を経て、自分が神学校へと向かう準備をしていたように思う。神学校への直接の動機にはいろいろな要素が複雑にからみあっているのだが、いずれにしても、このはじめの大学生の時期に、もがきながら読書をした経験が神学校での学びを教会という現場の中で自分のものとするまで考えるということの訓練となっただろうと思う。
ものを読めば、すぐに影響されて新しい言葉に飛びついて、上滑りになっていったものだが、そこからもう一度自分に立ち返って読まなければ本当に読んだことにならないと思うようになったのだった。そして、ちょうど神学校へいこうという決心をするころに岩波が取り上げたのがグティエレスの『解放の神学』であったのは、自分の歩みを象徴する一つのしるしであったように思うのだ。
石居先生 こんにちは。はじめまして。私は大学生です。ひょんなところから石居先生を知り、このブログもよく拝読させていただいています。特に大学時代のお話には、色々と思わされます。私も不器用ながら、なんとかやっていこうと思います。
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