2021-08-09

アメリカの礼拝についての具体的な指針としての「恵みの手段の用い方」における聖餐理解 2

 

2.   キリストのリアルプレゼンス

第二に確認されることは、キリストのリアルプレゼンスの問題である。神の恵みのわざ、賜物としてのサクラメント理解に加えて、ルターの聖餐理解のいわば中核であり、また宗教改革陣営でもっとも深刻な論争となったキリストの現在の理解がここに示される。 

「この礼典において、十字架にかけられよみがえられたキリストが現在し、そのまことの体と血とを、食べ物と飲み物として与えられた。この現在は、神秘である。」(UMG33

ここで注意したいことは、キリストの現在がこの聖餐の出来事に結び付けられ、同時に物素としての食物と飲み物、パンとぶどう酒に結び合わされているということである。この二つを、区別することなく一息で言い切っている。つまり、この聖餐においてキリストが現在されるということは、単純にパンとぶどう酒としての「物」として存在するということを言っているばかりではなく、むしろそれを与えたもう行為者としてのキリストの現在を含んでいるということであろう。しかも、聖餐におけるキリストの現在は、その礼典のさまざまな名前が示すように(UMG36)、聖書の中のさまざまなキリストの祝福の食事の主がその行為者として現在するということであって、単に物としての対象としての現在ということに限定されていない。

赤城善光は「ルターおよびルター派は、くりかえしキリストの実在を力説したが、その場合、リアリティは客体的・対象的リアリティとして把握されていたのではあるまいか」[2]という。たしかに、ルターの言い方を見るならば、スコラの実態変化の教理を明確に退けているにもかかわらず、この「物」としてのパンとぶどう酒においてキリストが現在するというリアリティへ固執している。

しかし、それは単純に、キリストをそこにおいて客体化もしくは対象化しているのではないかというのであれば、おそらくはっきりと否定しなければならないだろう。ちょうど、キリストご自身が礼拝され、あがめられるためではなく、むしろ、仕えるために来られたのと同様に、ルターは聖餐においてキリストの現在が起こっているのは、むしろ、それによってキリストが私たちの信仰のために働き、仕えてくださっているというのである。つまり、そこでも主体はキリストご自身なのであって、そして徹底的に「私のため」「私たちのため」に働かれるのである。

赤木のような誤解を、ある意味ではっきりと否定する見解といってもよいだろう。さらに、ルターは、聖餐においてキリストは礼拝の対象というのではなく、むしろ、キリストがわれわれを犠牲としてささげられるとまで言う[3]。これは、物素に結びついた意味でのキリストの現在について語っているところではないが、この聖餐の私たちに対するキリストの主体性を明確に言い表すものであるといってよい。つまり、聖餐においては、神の救いの恵みにわたしたち一人一人を与らせるためのキリストのみ業が起こっていることを示しているのである。そうであれば、確かにそれは礼拝されることもありうるであろうが、しかし、むしろ、そのキリストの働きのリアリティを受け取ることが、キリストのリアルプレゼンスという表現の持つ意味だというべきであろう。

また、その現在の「どのように」は神秘という。

 

キリストの現在の「どのように」は、他のいずこにおいてもと同じように、このサクラメントにおいても、説明されえないままである。サクラメントにおいては見える媒介物が用いられていてさえも、この現在は隠されたままなのである。この地上の要素は、神的現在にふさわしい媒体であり、かつまた、これ、すなわち私たちの生活の日常的な物がすでに始まった新しい創造に参与してもいるのである。(UMG33B

 

この「どのように」を説明不可能なことというのは、カトリックのスコラ神学による実体変化の教理に反対しつつ、パンとぶどう酒がキリストのからだと血「である」ことを主張したルターの立場を示している。キリストがまことの人でありつつまことの神であること、あるいはキリストによる義認のもとで罪人である私たちがそのままに義人であるということと重ねて考えることができるだろう。パンとぶどう酒は、そのパンとぶどう酒であるままで、しかし、同時にキリストの体と血なのであるという信仰の神秘を表している。

さらに、そのキリストの現在の神秘とともにここで着目したいのは、このパンとぶどう酒が聖餐のつまり、復活のキリストの体と血に用いられているということが、新しい創造に対するこの世の物質の参与として描かれているということである。この終末論的な視点が明確に示されることで、聖餐の本質をより大きな神の救済の道筋のなかに位置づけるものとなっている。つまり、この聖餐の恵みの中には、単に罪の赦しというわたしたちの個人的な救いの次元ばかりではない、いわゆる終末の待望とまたそこでの全被造物に対する救い、つまり宇宙論的な救いの次元が開かれていることが示されているということになる。ルター自信にこのような視点がどれだけ明瞭であった言及は極めて重要といえよう。

 



[2] 赤木善光『宗教改革者の聖餐論』教文官 2005年 102ページ

[3] ルター「新しい契約、すなわち聖なるミサについての説教」第12巻 168ページ

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