2021-08-09

アメリカの礼拝についての具体的な指針としての「恵みの手段の用い方」における聖餐理解 3

 

3.   信仰によって受け取る

ルターは、聖餐論の展開のなかで、キリストの現在をとりわけその物質的な要素と結びついた見えるみことばの客観性として論じているのだが、同時に、これが執行され、あるいはそれを受けるという行為によって自動的に救いへの効力となるような事項的効力を否定している。これは、中世の私唱ミサに見られるように、司祭がミサを捧げる行為そのものが功績として救いに役立つものとする考えに反対したものである。このサクラメントは、信仰において一人ひとりに受け取られなければならないのである[4]

この「恵みの手段の用い方」の実践指針においては、聖餐が洗礼を受けたものがその信仰において受け取られるということをはっきりと述べている(UMG37)。具体的には、聖餐に与ることを堅信と結びつけてきた教会の実践を改めたことを確認し、小児陪餐を奨励する実践的課題を見ているといえよう。ただ、その場合に、洗礼を受けたことが自動的に聖餐をうけるということにならないように、注意を喚起している。つまり、聖餐は、その年齢に応じた聖餐の理解をもって受け取ることが必要ということである。もちろん、聖餐が形式ばかりになるのと同様に、信仰が単なる知的な承認となることも避けられなければならない。ただ、信仰がその聖餐のうちに与えられる神の賜物に対する信頼を表すことがなければならない(UMG37F)。そのための教育的な取り組みを強調する。洗礼前の準備教育で、聖餐についても教えられるべきであることを明言している(UMG37A)。また、嬰児や子どもが洗礼を受けた場合、保護者と洗礼親にその教育にかかわる責任があることを語る(UMG37E)。

こうした実際の意図とは別に、たとえば未受洗者に陪餐するといった、日本の一部のプロテスタント教会で実践されている問題に対し、この洗礼を受けた者への陪餐の原則ははっきりとした指針であることは間違いない。

また、日本の現状とも重ねて考えるべきもうひとつの問題として、未受洗者に対する言及は極めて実践上の配慮に満ちている。

 

もし、未受洗の者がキリストの現在を求めて聖卓へ進み出て、誤って配餐を受けた場合、その人物もまた牧師も恥をかくことのないようにすべきである。むしろ、キリストの愛と憐れみの賜物がほめたたえられるのである。そして、本人が教会の信仰を学び、洗礼を受け、その後に信仰において聖餐に与るように招かれる。(UMG37G

 

アメリカのルーテル教会において、さまざまな文化・宗教の伝統を背景にした人々への配慮が重要になっている現状を反映し、こうした初めて教会に来た人々への対応を配慮したことが明文化されたことは意義深い。日本のような宣教地では当たり前のことでといえば、そうではあるが、こうした意識がどのように教会の中に位置づいているかは、なおさら大切な視点である。実際には、教会に慣れている者たちだけの実践になってしまっていないだろうか。開かれた教会であるために、具体的にどのような対応ができるか、十分に配慮していく必要があるだろう。

そして、小児陪餐については、さらに詳しく踏み込んで言及している(UMG38)。初陪餐の年齢については、さまざまな教会の実践を踏まえ、なお検討を要するとしながら、それぞれの教会で一貫したポリシーが作られる必要を述べている(UMG38C)。



[4] ルター「キリストの聖なる真のからだの尊いサクラメントについて、及び兄弟団についての説教」第11巻 653ページ

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