2021-08-09

アメリカの礼拝についての具体的な指針としての「恵みの手段の用い方」における聖餐理解 4

4.   エキュメニカルな課題

すでに、アメリカのルーテル教会はカナダ・ルーテル教会、モラビア教会、アメリカ聖公会、改革派教会、およびキリスト合同教会とフル・コミュニオンの関係をもち、またカナダ合同教会、合同メソジスト教会とカトリック教会とエキュメニカルな対話をもっている。そうした実際のエキュメニカルな対話の成果と実践の中で、ユーカリスティック・ホスピタリティーの原則を明示している。 (UMG49

さらに、他教会の聖餐への参加については次のように言う。 「キリスト教会の普遍的本質のゆえに、ルーテル教会員はキリスト教の他の教派の聖餐(感謝の祭儀)に参加してよい。」(UMG50

つまり、このルター派の聖餐の実践は単に各個教会の場所において、キリストの恵みを受け取るということだけを示すのではない。むしろ、普遍的な教会の一致を示し、具体的に食卓の一致、フル・コミュニオンの聖餐の一致をエキュメニカルな対話のめざすところとして位置づけるのである。(UMG50A

ここで重要なことは、聖餐のコイノーニア(交わり)の理解をはっきりと位置づけているところである(UMG36A)

ルターは、とりわけその初期において「交わりとしての聖餐」の理解をもっていた[5]。この理解は、後期においてはやや後方に退いたといえるが、しかし、ルターからなくなってしまったものではない。その実際の交わりの姿が、この礼典に参与するものに具体的な恵みであるばかりではなく、また一つのしるし、約束、そして課題としてのコイノーニアを示すものとなるといってよいだろう。その点で、ここでコイノーニアとしての聖餐の性格を明らかにしていることはルター的な神学に基づいているということがいえる(UMG38C)。ちなみに、赤木氏によれば、カルヴァンの聖餐理解は、キリストを交わりにおいてみているが、ルターはキリストの現在を客体的・対象的に捕らえると比較している[6]が、その指摘は必ずしも妥当なものとは言いがたい。むしろ、キリストとの交わり、またすべての聖徒、キリスト者との交わりが聖餐の本質であることが考えられている。

このコイノーニアの理解こそ、エキュメニカルな教会の対話の中での聖餐の持つ課題をよく示しているといえよう。実際、WCCでは1993年サンチャゴ・デ・コンポステーラで開かれた、第5回信仰職制世界会議で、コイノニアがクローズアップされ論じられるようになったという。神田健次によれば、そこでは、およそ三つの側面が論じられているといっている。第一に聖餐の交わり、第二に、人間共同体が内包している差別や分断を克服する、コイノーニアの包括性。そして、第三に教派分裂を止揚する、相互陪餐の課題である[7]。キリストを中心とした教会の一致は、まさにキリストを分かち合い、そのからだとされた一人ひとりのキリスト者が確かにそれぞれに違いを認めつつも、必要な部分として尊重しあい、主の愛の証と実践を生きることなくしては、起こらないだろう。それだけに聖餐における一致を求める姿勢を明確に示していることは意義深いことだといえよう。

 



[5] ルター「キリストの聖なる真のからだの尊いサクラメントについて、及び兄弟団についての説教」第11巻 「結論するところ、このサクラメントの実は交わりと愛とであって、これによって私たちは死やいっさいの災難に対し力づけられるのである。この交わりは二様である。一つは、私たちがキリストおよびすべての聖徒たち≪との交わり≫にあずかることであり、いま一つは、すべてのキリスト者をして、いかなる方法においてであれ、彼らと私たちにできるかぎり、私たち≪との交わり≫にあずからしめることである。こうして、自分自身の利己的な愛はこのサクラメントによって根だやしされ、あらゆる人間の共通の利益となる愛を導入することになる。こうしてまた、この愛の変化によって一つのパン、一つの飲み物、一つのからだ、一つの共同体ができるのである。これがキリスト教における兄弟としての真の一致である。」657ページ。

[6]赤木善光『宗教改革者の聖餐論』教文官 2005年 102ページ

[7] 神田健次『現代の聖餐論:エキュメニカル運動の軌跡から』 日本基督教団出版 1997271274ページ

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