宗教改革500年を控えて毎年一回、五回連続でシリーズ化した「宗教改革500周年と私たち」の第四回目。今年のテーマは『キリスト者の自由」だ。ルターの数ある著作の中でも最も多く読まれているものの一つといえるだろう。1520年に書かれ、宗教改革的信仰の神髄を著したもの。現代の私たちは、この書をどう読むのか。
6月に行われた牧師のためのルターセミナーで、研究発表した所員のなかから、今回は二人が選ばれている。ルターの信仰的な格闘を、現代の脈絡のなかで味わいたい。
どなたも歓迎!是非、おいでください。
ルーテル学院大学・ルター研究所主催
秋の講演会 シリーズ「宗教改革500周年とわたしたち」第四回
テーマ:キリスト者の自由
場所:日本福音ルーテルむさしの教会
(東京都杉並区下井草1−16−7、JR中央線阿佐ヶ谷駅下車)
入場無料
講演:1.「だれにも服さない自由な主人であると同時に、だれにでも服す僕」
講演者:鈴木浩所長
2.「『キリスト者の自由』における悪の問題〜現代社会に生きる魂の問い」
講演者:石居基夫所員
現代日本に生きる多くの人たちは、もしかしたら、日常の生活においてなにも不自由のない「自由さ」を生きているように見える。生活のあらゆるニーズにはコンビニエントな充足があるのだ。ここ十年で誰もが手にすることとなったITのネットワークは、私たちが時も場所も超越し、あらゆる隔てを乗り越えて結び合い「自由」な往き来を可能にしたかに見える。
しかし、そこに本当の自由はあるのか。
ルターがあの中世の末に生きた。それまでの世界がガラガラと変化していくなか、過去の因襲から解放されていく。それは、しかし同時に生きる個(孤)として世界に投げ出されていくということでもあった。一方では確かな自由の予感を感じながら、しかし、同時に他方本当の自分を見つめて恐怖に捉えられたその深い魂の問いを生きざるを得なかった。
そうであれば、その時に、「キリスト者である」というただその一点において「自由」を語ったことの意味を、現代のなかに捉え直すことに意味があるのではないか。
そんな問題意識をまとめてみたい。
『キリスト者の自由』という表題は、16世紀、つまり中世末期のドイツの暗い世代に、新しい時代の到来を思わせるテーマであったに違いない。しかし、いったいそこで考えられている「自由」とはいったいなんであったのか。逆に、現代日本ではすでにあらゆる意味で「自由」を享受するようなじだいであり、またそれゆえに自己責任が問われる時代でもあるのだが、果たして本当に私たちは「自由」なものなのだろうか。
返信削除ルターが、その生涯をかけて向かい合った問題は、おそらく私たち全てのものが向かい合うべき「死」と「悪魔の力」、そして「罪」の問題であっただろう。それらはこの世界に生きる限りさけ難いものであるのだが、それにも拘らず、この世の生をこれらから「自由」になって生きるという信仰の生を追い求めたのだと言えるだろう。その格闘の意義を現代の脈絡のなかに問うてみたい。限られた時間だが、皆さんとともに考えるための講演が出来たらと願っている。
鈴木先生は、当日予定を変えて、今年10月31日にスウェーデンのルンドで行われたカトリックとルーテルの世界規模での合同礼拝の報告をしてくださいました。日本からは浅野直樹先生と鈴木浩先生が出席されました。鈴木先生は両教会の作る世界のカトリックととルーテルの対話委員会の委員のおひとり(世界のルーテル教会から選ばれた10名の一人です!)なので、前列から5番目あたりにおすわりになっていたとのこと。
返信削除フランシスコ教皇のVIP待遇と警護はすごかったとのことでしたが、なによりも、礼拝は現代世界のキリスト教ということを意識したものとして印象に残った様子。伝統的な礼拝様式というより新しいかたちでヒスパニック系の音楽などの特徴を感じたと。