貧しい人々は、幸いである、
神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである、
あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、
あなたがたは笑うようになる。 (ルカ6:20・21)
ルカ福音書の中にあるイエス様のことばです。二千年前のユダヤ社会でのことですけれども、そこにはたくさんの貧しい人々があり、生きていくために苦しみや哀しみを抱えている人たちが大勢居ました。一方では裕福で、そして安全・安心で宗教的にも社会的にも立派な人たちが居たのですけれど、それは、本当に一握りの特権的な人たちでしたでしょう。そういう人たちだけが神様の祝福を得ていて、他の人はそれには値しない人たち、だからこんなに苦しみがあるのだと差別されていたような時代です。
その時に、イエス様はその目の前にいる、一人ひとりが神様の祝福、幸いのなかにあるのだと宣言される。慰められ、癒されて、あなたこそが喜びの神の国にある。そうあるべきだから、そうなのだと宣言されるのです。
イエス様による、神様からの「幸い」への宣言、約束は、神様の国が実現する時にそこでかなえられることの確かさの故に、まだその実現を今目の前に見ていなくとも、その喜びが生き生きと私を変えていく。ルター研・所長の鈴木浩先生流にいえば、一億円の宝くじ、当選したならそのくじを見て、まだ銀行にいって受け取っていなければそのくじはただの紙切れですけれど、1億円が確かに自分のものだともうわくわく大喜びするでしょう。銀行と紙切れが保証する、すぐ無くなるかもしれない一億円ではなく、確かな「幸い」をくださるのは神様で、イエス様のことばがそれを保証するわけですから、こんなに確かな喜びはない。そういう祝福が宣言されているわけです。
その「幸い」は確かに約束されている。
けれども、今すぐにはここにないということも確かでしょう。哀しみも苦しみもその現実がそこにある。それなら、その「幸い」をこの時にもなんとかして、その一人ひとりに実現していこうと神様のみ業に仕えるようにする。それが宣教の働きです。神様の約束のことばを告げ知らせる教会や牧師の働きとともに、社会福祉の働きというのは、その「幸い」を具体的に保証していこうという一つの働きだといってよいでしょう。
今からちょうど40年前、1976年に本学は大きな決断を形にしました。それは、それまで神学大学、神学校としてルーテル教会の牧師を育てるというその学校の教育・研究において、「社会福祉」の働き人を育てることを使命として、はっきりと位置づけたことでした。神学部、神学科の中に「キリスト教社会福祉コース」が誕生しました。
社会福祉は、ルーテル教会がこの日本に伝道をはじめた当初から、教会の大切な働きの一つとしてきたものでした。1919年にモード・パウラスという女性宣教師の働きによって九州熊本の地に慈愛園がたてられ、高齢者やさまざまな生活の困難を抱える人たちへの社会的支援をつくっていきます。その後各地で老人ホーム、母子寮や保育施設、障がい者の施設などが、教会や信徒の働きによって産み出されていったのです。ですから、その現場にその働き人を送り出すことは、当然に考えられたことだったと言ってよいでしょうし、それぞれの現場で人材は求められてきたのです。そうした思いに応えるようにして、この大学は福祉教育をはじめます。
本学の百年史に、実は、このキリスト教社会福祉コースをつくり、やがて社会福祉学科を立ち上げていったこと、また、キリスト教とカウンセリングコースから臨床心理の教育を産み出していった近年の取り組みが記録されています。まとめられた江藤直純学長が、その時代を記した項目のタイトルは、「人間の『幸い』のための教育への展開」です。
イエス・キリストが、さまざまな困難を生きる人々に、あなたがたは「幸い」と宣言された。神様によって造られ、いのちを与えられた一人ひとりが、その神様の約束される「幸い」に生きるのは、当然のこと。それが、この世界の中で確かに実現されるための教育をここに展開をしているのだと思う。
1976年に入学した、キリスト教社会福祉コース第一期生は11名。全員がいずれかの教会の牧師先生の推薦をもらって、当時の日本ルーテル神学大学に福祉を学びたいとやってきた学生たちでした。ズラッと並ぶ神学、キリスト教の科目も神学生と一緒に机を並べて履修しなければならないということもありました。聖書もいいけれど、社会福祉をちゃんと学びたいという強い思いや、逆にキリスト教にしっかりとたったところで福祉を教えてほしいとか、学生たちもそれぞれに自分たちの思いをぶつけ、教員も真剣にそうした学生と議論を交わしながら、一つひとつつくられていった社会福祉の人材教育でした。
先日の一日神学校でもこの福祉教育40周年を記念し、感謝の企画がございました。キリスト教社会福祉コース草創期から牽引してくださった前田ケイ名誉教授をはじめ歴代の福祉のコース主任、学科長の先生方に市川一宏先生がお尋ねくださるようにして、本学社会福祉教育の使命とまたその課題、そして展望をお話くださったのです。
そのなかで、なによりも印象に残りましたのは、やはり、教会が先駆的に取り組み、支えてきた社会福祉の中で、その専門性を高めるために福祉の現場に即した実践力をつける教育を担ってきたという自負があふれていることでした。そして、もう一つは、私たちの福祉教育は、キリスト教に基づいた全人的・包括的な人間理解を軸にして、個人を尊重し、一人ひとりを大切にするワーカーをたくさん送り出してきたし、卒業生が本当にそれぞれの現場・地域で確かな福祉の担い手となってくださってきたということへの感謝の思いでありました。
「キリスト教に基づいた福祉」というと、それは、なにか特別な宗教的動機や義務感のようなものがあるのかと誤解されるかも知れないし、慈善事業だとかキリスト教の偽善じゃないかと揶揄されるということもあったので、あまり強調することははばかれるといわれたこともあります。しかし、やはり本学では、一貫して、私たちはこのチャペルで、学生も教職員も神様のみことばによって支えられ、導かれてきたと思っています。
私たちが社会福祉の教育や、臨床心理の教育をするのは、もちろん、学生の皆さんがそういう専門を身につけて、将来に羽ばたいていってほしいとねがっているということであります。けれども、その働きを担う人材をおくりだすことは、この世界で、たくさんの人々が苦しみ、悩み、生きるいのちの尊厳が奪われているという現実のなか、その一人ひとりに「幸い」を実現していかなければならないという使命を思うからです。
二ヶ月前に相模原の障害者の施設で、決してあってはならない事件で、何人もの尊い命が奪われました。世界を見れば内戦で、また飢餓や迫害で、大きな災害で、今もいのちに危険が迫っている。そういう現実がある。そのなかに、神の幸いの宣言と、そしてそのことの実現を是非とも伝え、守っていかなくてはならないのです。
この使命を託される私たち自身も、たくさんの悩みや哀しみを抱えている存在でもあります。だからこそ、このチャペルにおいて、生きることの本当の支え、神に愛されているという確かさに私たちも出会い、そのみことばの慰めと力に満たされていたいと思う。そうして、私たちに与えられたこの使命を高く掲げて、神の祝福、「幸い」のために、それぞれの歩みを進めていきたいと思うのです。 アーメン。
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