2016-09-22

「このひとりを」(2016年度 一日神学校 開会礼拝説教)

今年4月、熊本で大きな地震が起こりました。熊本は107年前、この神学校がはじめられた場所、多くのルーテル教会があり、九州学院と九州ルーテル学院の二つの学校もあります。慈愛園をはじめたくさんの福祉施設がある。私たちルーテルの者にとっては特別なところだと言ってよいのです。
 大きな揺れに、本棚から、戸棚から物が崩れ落ちて、ひどい状況になってしまったのをなんとか片付けていた矢先に二度目の激しい揺れが未明におこります。まるで床下から身体を突き上げられるようだったと、多くの方々がいわれます。この本震が本当に深刻な被害を生むことになりました。皆さんのご存知のとおりです。
 そんな中で、私たちルーテル関係の教会、学校、施設は、それぞれ被災しながらも、直後から近隣の人々の避難や生活の支援の働きを担うことになりました。どうしていいかわからない人たちが家から飛び出してきて、すこしでも安心できる場所、足りない物資を求めてくる。その人々を、教会や施設は自然な形で受け止めていくことになったでしょう。
 口でいうのは簡単ですけれども、腹をくくらねば実現していかない。
 自主的避難所となった健軍教会では、礼拝堂に4〜50名の方々をうけいれました。牧師は役員と相談しながら、一つひとつ教会の取り組みとして決断としていかれました。相談をうけた教会の方は、「先生、やりましょう」と二つ返事だったそうです。節目節目に新しい取り組みをされるとき、「これをやらないでいる理由は無いですよね」といってひきうけられていく。ご自身も被災されている中、そうして、二か月、三か月にわたって三度の食事を提供し避難所、炊き出しが続けられ、困難を抱えている人たちと共に生きる実践がなされてきました。「やりましょう」「やらないでいる理由は無いですね」って。

 ここには、神の愛に生かされた信仰が本当に確かな形になっていく姿を見ることが出来るように思う。そして、きっと、これまでルーテル教会が産み出してきた福祉の働きも同じように、その時々に、困難を抱えている人たちを目の前に、このひとりを助けたい、支援したいという思いが形になっていったということだろう。東京老人ホームもベタニアの母子寮もあの関東大震災後の支援から生まれていったのです。
 お読みいただいた箇所。イエス様が十字架におかかりになられる前、最後の晩餐の席で、弟子たちの足を洗う場面で語られた言葉です。

「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」(ヨハネ13:14)

足を洗うということは、当時のイスラエルでは奴隷の仕事です。弟子たちは、驚いたことでしょう。なぜ、主が足をあらってくださるのか。けれど主はご自身で身を低くして、私の歩みのその足下を清めてくださったのです。疲れているこの足、汚れているこの足を手に取って、愛おしむように洗いぬぐってくださる。イエス様は繰り返し、神が私たちを愛し、生かしてくださる恵みを教え、実際に人を愛するべきこと、仕えるべきことを教えてくださいました。しかし、今こうして、具体的な姿をもって、実際にイエス様が弟子の足を洗うということをなさって、弟子たちとの関係を新しく刻まれました。弟子たちは、頭のなかに愛についての教えや考えをいただくのではなく、身体をもって、何をすべきか、その実践の力をいただいたのです。
 同じように、私たち一人ひとりはイエス様によって愛されて、そのみ手に抱かれ、生かされます。この一人を愛してくださる。愛された私たちの経験が、感謝となって、私たちは新しく生かされ、だれかを愛していく実践となる。
 ルーテル教会が大切にしてきたことは、おそらくこの実践の力ではないかと思う。1893年に宣教をはじめる日本のルーテル教会は、ただ教会をつくってきただけではありません。学校を建て、社会福祉の働きを広げていきます。神の愛に生かされた感謝が、奉仕を産み出していくことを、一つひとつ大切に育ててきたのです。

 今年、私たちルーテル学院は福祉教育をはじめて40年目を迎えています。この大学が福祉の働き人を現場に送り出すことを使命としてきたのは、キリストが弟子の足を洗う、その姿をいただいたからといっても良いでしょう。神さまの私たちに対する愛は、私たちを新しく生かしはじめるのです。とるに足りない私たちの存在を主が慈しみ愛してくださった。そこに私たちの感謝と奉仕が生まれてくる。だから、この大学の福祉教育では、このチャペルを通して神の愛を伝え、一人ひとりを大切にする人材教育として、それぞれの現場で、社会で、実践力をもってこの一人を愛する神の働きに仕えていくような働き人を送り出してきたと思う。そのような教育の場が与えられ、40年導かれてきたことを心から感謝をもって喜びたいのです。

 今日は、このチャペルにパイプオルガンが与えられ、共にその音色の中で神様の愛を受け取っていただけていると思います。後で、詳しくご紹介いただくことですが、このパイプオルガンも、一人の信仰者が御自分の人生に神の愛をいただいたことへの深い感謝をあらわされ、その恵みに導いてくれたルーテル教会、その牧師を育てる本学のチャペルへ是非オルガンをと捧げられたものに、多くの人々が賛同して形になったものです。
 
 神の愛に対する感謝は具体的な形になり、また次の人々に神様の愛を伝え、そうして感謝と愛が広がっていく。小さな一人一人の力が合わせられていくのです。その一つの形がこのオルガン。私たちは、その証人となっていますし、その広がりの輪に加えられているのです。

 健軍教会に避難をされていた方達は、それぞれに自立されてそこから旅立っていかれたそうですが、最後までなかなか行き先が決まらなかった人たちは、介護の必要な高齢者、障がい者、心の病を負った人、外国人だったといわれました。社会的弱者の人たちです。日本の社会のなかに埋もれている人たちがあるのです。教会が、そして、私たちが、誰と共に生きるか、誰のために働くか。そのことを改めて教えられているように思う。そして、「このひとりを」主は決してお見捨てになることはありません。だから、私たちもその主の働きの中に、生かされていきたいのです。そして、そのための働き人を育てたい。
 
 この神学校・大学がたてられ、教育を託され、こうして福祉の40年があり、またパイプオルガンを与えられた感謝を思うとき。ルーテル学院の使命を改めて皆さんと共に心におくことができ、本当にうれしく思います。
 どうぞ今日一日、この一日神学校において、この神の恵みを皆さん分かち合っていただければと思います。そして、私たち一人ひとりが、「やりましょう」「これをやらない理由はないですね」と、主の呼び掛けに応えていくものとなりたい。神の愛への感謝を生きて現していく者となっていきたいと思うのです。

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