2013-11-18

「恐れずに」ルカ19:11〜27

説教「恐れずに」ルカ19:11〜27 (2013・11・10の保谷教会での説教)

 今日の聖書の個所は、イエス様がムナのたとえをもってお話しになられたところです。10人の僕たちが主人から商売をするように勧められてそれぞれ一ムナずつを与ります。主人の命令に聞き従い、ある者は10ムナ、別の僕は5ムナを儲ける。そして主人に報告をすると、その儲けに応じた報いを受け取ります。
 しかし、その中の一人は、
『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。 あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』といって、とっておいた一ムナを差し出した。すると、主人は、この僕をしかり、預けた一ムナを取り上げ、他の者に与えます。

 少なくとも、無駄になくしたのではなかったのだから、それなりに一ムナを評価しても良いのではないのでしょうか。商売というのは、儲ける者があれば、失敗する者もあるわけで、大きな借金を抱えることにでもなれば、それは返って主人に損失を与えることにもなる。この僕は、自分が商売の才能がなかったのではないか。危ない橋は渡らずに、預かったものを守るのが精一杯と思ったかもしれません。
 けれど、「それなら」と主人はいうのです。せめて銀行に預けておくべきだったと。イエス様の時代の銀行といっても、実際には両替人か、高利貸しの類いでしょう。あるいは王の財産を管理するなかで、銀行に似た働きがなされたようです。けれど、とにかくそうしたお金を専門に扱う仕事があって、それに預けることでわずかばかりの利益を生む方法があったのでしょう。自分が商売をせずとも、それを託し運用することも出来たはず。つまり、一ムナを預けられたものは、どのようにしてでも、それを運用すべきだと言われているのです。
 一人ひとり預けられる額は一ムナずつです。このたとえを聞く私たちは、マタイ福音書のタラントンのたとえと同じようになにかの才能が与えられているということのたとえとして聞き取ることも出来ますが、誰にも与えられた「いのち」を意味するように聞いてみることが出来るでしょう。皆に等しく与えられたいのち。それは、用いなければ、いのちを生きたことにならないのです。しまっておいては、だめなのです。

 この僕はそれを用いることができませんでした。だから、その一ムナは取り上げられてしまいます。彼は預かったその一ムナさえ、ついに自分のものとすることが出来なかったのです。なにも用いることが出来なかったからです。
 その理由は何かというと、「恐ろしかった」と言っています。一体、彼はなにを恐れたのでしょうか。
 その商売をすることが危険を伴うことでしょう。なにもかも失う可能性のあること。そういう危険をおかすことを避けたのです。失うこと、傷つくことを恐れる思いでしょう。
 しかし、本当に恐れたのは自分の主人のことでした。預けないものを取り立て、まかないところから刈り取る、その厳しさの故に彼は恐れた。それは、すべてを奪い取る厳しさを思わせるこの恐れは、死への恐れのようにも思われるのです。

 私たちは、神様から生きるようにと託されたいのちを生きるのに、この僕と同じように何かを恐れるのかもしれません。何かを目的にして、時間を費やし、人と関わり、自らを注ぎ出す生き方をすればするほど、傷つき、そして、私たちは自らを失うような危険のなかにおかれるのです。あるいは、また自分が何事かに取り組めば、必ずその評価を受けるということになる。どう見られているのか。否定的なまなざしを受けるのは不本意ですし、深く傷つくものです。それらはあたかも自分を失うことのように思われて恐れるのかもしれません。
 
 それはしかし、本当に神様によって託されたいのちを生きることになっていないのではないか。恐れて何もせずに、それを隠していては、もっていてももっていないのと同じことになってしまうのです。だから、恐れずに自らを注ぎ出して、危険を冒しても生きるように。このたとえは、厳しい言葉を通して、生きることの本質を伝えているように思います。
 
 しかし、それでも、私たちはやはり恐れるのです。自分の無力なことを知っているからです。10ムナ、5ムナばかりかわずかでも稼ぐ力がどこにあるだろう。そういう自分ではないし、運だっていいほうじゃあない。いったい、傷つくことも恐れずに、大胆に、自らを危険にさらす勇気はどこから来るのでしょう。

 福音書記者ルカはこの主のたとえによる教えを、ルカ自身に語られた慰めと励ましとして聞いています。ユダヤ人からも、ローマからも迫害を経験しているルカは、神様の救いを待ちわびる信徒たちとともに主のみことばに、いえ、主の働きそのものに励ましと力を受け取って生きているのです。
 その特徴はマタイのタラントンのたとえにはない一つの要素によって、見事に照らし出されています。その要素は、この僕たちに自分の財産を預けて旅に出る主人が、単なる旅に出たのではなく、王の位を受けることのためであったことが記されるのです。それぞれの働きの報告を受けて報酬を告げる王となって還って来た主人は、かねて王になることに反対する者たちに厳しい裁きを語ります。

 しかし僕たちは、王の僕であることにおいて守られています。ルカは、厳しい王の裁きのあることを示していますが、王の僕であるということこそが何よりも確かにそのいのちを保証するものであるということを示しています。僕であることの確かさから、恐れを取り除くように励まされるのです。

 では、一体どのようにして、王の僕であることなのでしょう。
 このたとえは、預かった一ムナを用いることによってのみ、王の僕であることが明らかになるというのです。
 主の僕として、一ムナを、このいのちを用いるというのは、信仰を生きることであり、また誰かにキリストの愛をもって働くことです。ザアカイがそうであったように自らを改めて人のためにもっているものを用い、注ぎ出していく。富める若者に言われたように、貧しい人々のために施し、あの善きサマリア人のように、困っている者があれば助ける隣人となること。主は、そのように自らのいのちを用い、主の愛の実りを求めておられる。
 私たち自身が、そのために自分を注ぎ出すことが出来るかどうか。きっと、私たちは、なかなかそうはなれないとたたずんでいるのかも知れないのです。だとしたら、私たちは主の僕ではないということなのでしょうか。私たちは、自らが何者であるか知らされてくるのです。
 
 けれども、ルカはまさにそこでこそ聞き取るべき福音が示されたのだと、この福音書を記しているのです。つまり、そのたたずむ私たちを主の僕として生かすように、取り戻してくださる。それが実は、私たちの主の愛なのです。それこそが、私たちの主イエスのこの旅の意味なのです。
 イエス様は、これからエルサレムに入られる。このエルサレムにおいて待っているのは受難の出来事です。そこで主は裏切られ、裁かれ、十字架にいのちを奪われる。その苦しみ、その痛み、恐れと不安のすべてを主ご自身が生きてくださるのは、私たちの深い恐れを自らのうちに抱きしめてくださるためです。

 そうして、まさに私たちが傷つき、恐れ、たたずむその場所に主が共にいてくださることになったのです。私たちが生きること、いのちを注ぎ出すこと、ある働きを担うこと、人を愛すること、小さな手を差し伸べる時、そのどんな時にも恐れ、また傷つく、その私たちの心を確かにご自分のものとして、私たちを捉えてくださる。支えてくださる、そして、私の背中を押してくださる。私を主のものとして生かしてくださる。

 福音書を書いているこのルカは、あの十字架を前にして、恐れ逃げ出した弟子たちが新たに生かされた奇跡を見て来ました。その恵みの奇跡をルカは福音書とそして使徒言行録のなかに書き記しています。主を裏切って逃去ったあの弟子たちが、あの恐れのうちに一つの部屋に閉じこもり打震えていた弟子たちが、ゆるされ、励まされ、主の者としていかされ、宣教の働きに生きたのです。おそらく、ルカは、ルカ自身にもこの主の力、勇気、生きる恵みを受け取ったに違いありません。だからこそ、分かち合いたかったのです。このたとえが語られた後の主イエスの旅こそ、私たちを決して見放すことなく、主の僕として生かすための旅であること、そうして主の僕とされる私たちに、恐れず生きるように強く招く主の招きであることをルカは聞き取っているのです。
 
 私たち自身のうちには見いだされない、生きる勇気、信仰の力、注ぎ出す愛の力は、ただ、主がこの私に働いてくださって私を主の者として生かしてくださることによるのです。
 そうして、あなたたちは主の者なのです。あなたたち自身のことについては、何一つ心配する必要はありません。だから、恐れずに、あなた自身のいのちを用いて生きるようにと招き、私たちを生かしてくださる。その主の招きを聞いて、その励ましの中、恐れずに、私たちに与えられた一ムナを、このいのちを用いていく者とされたいと思うのです。

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