「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教え」、と書き出される今日の聖書の箇所は、イエス様が「神を神とも思わず、人を人とも思わない裁判官のたとえ」を通して、弟子たちに熱心に祈るべきことを教えられている、分かりやすい所と思います。ちょうど、ルカの11章のところで、「主の祈り」に続いて、祈ることを教えられている、その箇所とも重なる主題があるように思う。熱心な祈り、執拗に求める祈りに、神様は必ず答えてくださるという約束が語られているのです。
けれども、実際私たちが経験するところは、「熱心に祈っても、神様はすこしも聞いてくださらないのではないのか」という現実です。ちょうど、私たちは身近なところで大きな災害を繰り返し経験しています。ニュースを見ているという立場であれば、ただ胸をいためるばかりですけれど、しかし、直面している方々には、もっともっと切実な思い、叫びがある。どこにも救いが見いだされないままに、助けをもとめても答えは見えず、絶望が広がる。時が無情に過ぎていく。力を失い、希望を失う。むなしさの中にたたずむ。
そうした現実を私たちが生きるものであることを思う時に、この執拗な祈りへの招き、いやそれに神様が答えてくださるのだということばにはいささか戸惑いを覚えない訳でもありません。
しかし、今日の箇所は、実はまさにこうした私たちの問いや戸惑いに対する答えとして、わざわざ記されている箇所だというように思われるのです。福音書記者のルカは、直前の17章の後半で、イエス様がファリサイ派の人の問いかけに答えて「神の国」について教えられた直度に語られたものとしているのです。神の国はいつ?
「神の国」。それは、当時のイスラエルの人々にとっては具体的なユダヤの王国の再建をすぐにイメージさせた言葉ですが、しかし、その意味するところは神様の救いの実現の事です。
独立を失い、大国に滅ぼされ、支配されている。そうした厳しさを歴史の試練として経験して来た人々は、一体いつになったら神様の救いに与って、心安らかに過ごすことができるのか。そういう切実な思いで、「神の国」を求めて来たといってよい。
救いの実現への切実な問いを、福音書記者ルカは、自分たち自身の切実な思いとしているのです。この描かれている場面は、イエス様がエルサレムに向かっている、つまり十字架に向かうその旅の途上での教えとして記されています。しかし、書いているルカはその十字架の出来事から40年ほど経って、この福音書を書いています。その時にも、未だに神様の救いは、完成していない。「神の国」へのあこがれとともに、その到来の遅いこと、神様の救いの見えないことを嘆き、「いつになったら救われるのか」という問いが人々の中にある。人々は天に昇られたイエス様がもう一度おいでになる、その主の再臨と終末の救いということがいつ実現するのか、待ちかねているわけです。
そういう状況にある中で、一体イエス様は自分たちに何を教え、しめされたのか、改めて聞き取るようにと、ルカはこれを書いているのです。
イエス様はいわれます。「気を落とさずに、絶えず祈る」ようにと。まさに気を落とさざるを得ない状況の只中にあって、この励ましの言葉がかたりかけられている。不正な裁判官のたとえをもって、裁判官はこのやもめ求めの声に嫌々であろうと動かされるものだといいます。まして、神は、私たちの叫びもとめている声を聞かないでおられることはない。神様は速やかに求めに答えてくださる。そのことへの信頼を保ち続けるよう「絶えず祈る」ように励まされている。それが今日の聖書の箇所の最初にかたりだされているところです。
けれども、実は、この聖書の箇所が私たちに示している大切なことは、そこではありません。この箇所の一番おしまいの部分に示されているのです。つまり、絶えず祈り、神様の約束へ信頼するように語り、励ましながら、イエス様は、その最後に何をいわれているかというと、「しかし、人の子が来る時、はたして地上に信仰を見いだすだろうか」と結ばれているのです。イエス様は、弟子たちに対し、私たちに対し、「あなたがたには、最後まで信頼し続ける信仰があるか」と問いかけられているのです。
本当は、私たちがこの現実の中で、一体神様の救いはどこ?と、いつ?と尋ねているはずだったのです。しかし、その時に、イエス様が私たちに問うている。私たちは問われている者なのです。「その時に、信仰はあるのか」。
このことばは、「地上に信仰を見いだすだろうか。いや、見いだすことが出来ないだろう」という反語的な表現です。ある意味で、主のまなざしは非常に厳しいものだと思う。
けれど、それは、イエス様が私たちの現実をよく知っておられるということでもあります。私たちの有り様はきっとそうだろうと思うのです。救いを信じたいのです。あきらめることなく、気を落とさずに、主の救いに信頼をしたい。けれども、どうにも私たちは、疑いや迷い、不安や恐れにとらわれてもしまう。お前たちには、芥子種一粒ほどの信仰すら、みいだされないのではないのか。気を落とし、絶望するものなのではないのかと、主は言われているのです。
しかし、イエス様はその現実を良く知っておられて、なお、私たちに救いの確かさを語られている。不正な裁判官のたとえでも、このやもめには何か自分に有利に裁判をしてもらう根拠があるか、というとそんなことは最初から全く問題にはなっていません。この裁判官は自分がこれ以上煩わされるのはかなわないと、そのやもめのために裁判を行う。まして神様は、私たちへの愛をもってくださっているのだから、私たちの罪にも拘らず、いや、私たちの不信仰にも拘らず、赦しと憐れみをもっていてくださることを疑うことは出来ないと、いわれる。
つまり、信仰はないのか、と問われて、私たちにこれが私の信仰ですと申し出られるような確かな信仰なんてないに違いないのです。私たちはそういうものでしかありません。
あきらめちゃうんですよ、耐え切れないもの。そんなにお行儀のいい信仰者じゃない。「神様どうして たすけてくれないのか。助けてくれなかったのか」と、そういう嘆きを抱かざるを得ないのが私たちなのであって、いつも喜んでいなさいといわれても、どんな時にも喜んで、希望をもってなんていう信仰者のお手本みたいなことにはなれない。
そうだろう。それが私たちのありのままの姿だと、主はとうの昔に知っておられるということです。
いや、だからこそ、主はこれから十字架に向かわれるのです。その私たちを絶望の只中で、捉えてくださるために。生かすために。神様は、イエス様は、そういう不信仰な私であることを知っているからこそ、私をどこまでも捜し求めてくださっている。あきらめないでいらっしゃるのは、わたしたちではなくて、神様のほうなのです。
私たちが神も仏もないものだと、あきらめ、叫びたくなる、その現実の只中においで下さって、私を捉えてくださる。
「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか」と、叫ぶ、その私たちの場所にイエス様がいてくださる。それが十字架の意味です。それこそ、私たちをどこまでもあきらめない、神様の御心だといえるだろうと思う。それが私たちに救いをもたらすイエス・キリストの真実・信仰(ピスティス)なのです。
私たちを求め、私たちが信仰をすら失う、その場所にイエス様がいてくださる。私たちがあきらめと絶望のなかにある、その時にも、私たちをあきらめ、見放すことのない神様の愛がある。
それがルカもまた聞いていた、主の最も大きな慰めであり、希望であったに違いない。あのエルサレムの神殿がローマの侵攻によって崩れ落ちていく絶望感の只中で、ルカの心に尚働く慰めと力。それこそが、すでにあの十字架においてしめされた救いではなかったかと、ルカは私たちに対する神様の速やかな答えであること、この絶望の只中に見いだすことの出来る神様の愛の確かさに気づくように促しているといえるでしょう。
私たちの信仰が失われていくような、救いの見えない状況の只中で、私たちの信仰への問いかけとともに、「たとえあなたがあきらめようとも、私は決してあなたをあきらめることはない」とイエス様のみことばが、その真実がこの福音から響いている。
この恵みの声に包まれ、新しい一週間、主に生かされてまいりましょう。
(日本福音ルーテル刈谷教会での奉仕)
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