2011-12-12

熊沢義宣『キリスト教死生学論集』

キリスト教的視点に立って「いのちと死」について学んでみたいという人には、必読の書。
     
              

内容は二部構成で、前半第I部が「キリスト教死生学」、後半は「福祉の神学」についてと二つのテーマを深めているわけだが、どちらも神学的な人間理解のうえに成り立っている。
「キリスト教死生学」では、石原謙、金子勇男を手がかりにしながら、ルターの「死の理解」に深く学び、キリスト教における「死」の問題を教義学的に学ぶ試論に始まり、しかし、同時に現代の「心の病」の問題や生命倫理、あるいは「ターミナルケア」の課題など実践的にも深くまた幅広く考察されている。熊澤先生本人が病床にあって書かれたエッセイも含まれていて、人生の大問題としての「死」と向かい合う信仰者としてのまなざしに学ぶべきは多い。特に、「罪」と「死」の関係、また、その救いとしての十字架と神の愛について語られる言葉は、紋切り型の叙述ではなく、「いま、神学する」ということの意味を深く受け止めさせてもらえる。
「福祉の神学」は、長年の「ディアコニア」研究に裏打ちされた叙述で、キリスト教社会福祉とは、何かということを深く教える。「愛のボディーランゲージ」や「救いのパントマイム」といった表現のなかで、「福祉」が信仰に生かされた者が人間として共に生きる喜びを分かち合い、他者に奉仕する務めと理解される。さらに言えば、社会のなかで弱い存在は、その弱さ故に「宝」であり、人間世界を「競争社会」から「共存社会」へと変える特別な役割と価値を与えられ、祝福されていると論じる。
キリスト者として、「福祉」に生きることの基本を教えられる。

(書きかけのままにしてあったもの、書きあげて、公開しました。2013.9.05)



『十字架につけられた神』を読む

久しぶりに、学生とモルトマンを読み始めた。

http://www.shinkyo-pb.com/2008/07/18/post-766.php

今は、オンデマンドで購入することができるらしい。

学科の学生が、授業を聞いている中で、是非に読んでみたいと個人的に取り組み始めたので、「課題研究」で取り組んでいる。(この「課題研究」というのはルーテル学院大のキリスト教学科のみが持っている講座の一つで、いわゆるインデペンテント・スタディーのこと。希望に合わせて教員と一対一の授業をつくり課題に取り組んで一単位を取得することができる。)
今から四十数年前、60年代末から70年代の神学の格闘を改めて確認しつつ、しかし、確かに新鮮な、あるいは今の私たちの状況を深く考えさせられるような神学著作にゆっくりと取り組むことになった。学部の学生には、やや難解だろうが、神学の取り組みに関心を持ってくれたことがうれしい。

学部と神学校で「教義学」の関連諸科目を担当し、教えているけれども、なかなか、現代の問題に向かい合うような授業にまでうまく展開できていないことをいつも実感している。どうしても、伝統的な教義学項目を、順番に聖書的根拠や教理史をたどりつつ、教理・教説の説明のようになってしまいがちだ。もちろん、授業の展開の中では、日本の宗教性の問題や現代の教会の問題、あるいは思想・文化のなかでの神学のことを話したりしているけれども、限られた時間ではどうにもならないジレンマを感じている。また、実際に学部においては、キリスト教学科といえども教会に行ったこともない学生もクラスにいることも事実なので、こうした授業をどう展開するかについてはいつも自問自答のくり返しだ。
ただ、取り組みの中から、なにか生まれてくる。そういう経験を沢山してきたのも事実。教会に導かれていく学生があることはなににもましてうれしい。(大学の授業である限り、伝道しているわけではないのだけれども。)そして、とりわけ専門の領域で、関心をもってもらえるのは喜びだ。

自分の研究に時間がとれないと思いつつも、こうした学生との学びの時間は、自分の中に今一度神学の喜びを思い起こさせてもらえる大切な時とも思っている。自分が考えてきたこと、自分が取り組んでいることをもう一度確認させてもらえるような読書の時間だ。

教会・神学とこの世、社会のつながり。そこに働く信仰。
内向きな現在の教会の姿勢を改めて考えつつ、そこにある問題への深い洞察をしていく視座を与えられるように思う。

2011-11-14

脱原発へ 二つの表明

この秋にNCC(日本キリスト教協議会)とカトリック教会とがそれぞれに、原発についての意見を公にした。
この取り組みは本当に重要なものと改めて認識している。
脱原発の主張だ。

http://ncc-j.org/uploads/photos/13.pdf

NCCの「平和・核問題委員会」は原発の危険性のみならず、そこで働く労働者の被曝問題、廃棄物の問題、また副産物としての兵器利用にも言及している。この問題の広い射程をすべてとは言わないけれど、よくまとめて指摘している。
ただし、この問題についてキリスト教の視点における反対の理由、もしくは問題の分析が全くない。これでは、どこの団体がこの声明を出しているのか、ほとんど分からないと言ってもいい。
一般的な意味でのアッピールを考え、また特定の教派神学に偏ることのないように配慮が必要だったのか。NCCという超教派という性格上か、神学的言及を抑制したものだろうが、この点についてはNCCの一員として残念でならないし、責任を感じる。神学のないアッピールなら、NCCである必要はないだろう。

その点、以下のカトリックの司教団声明はクリアである。

http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/cbcj/111108.htm

ここには、短いけれども、「わたしたち人間には神の被造物であるすべてのいのち、自然を守り、子孫により安全で安心できる環境をわたす責任があります」とはっきりと言及し、私たちの生き方の問題として一人ひとりがエネルギーに対する過度に依存した生活態度を改めていく具体性をもって、この主張をまとめていっている。神学が必要だと言っても、こういう声明の中に難しい言葉を長々と書くことが必要なのではない。ポイントを絞り簡潔にそして宗教を異にする人々にも理解される表現は、このように可能なのだ。

NCCの同委員会は、放射能の危険性について深い見地から重要な情報を発信している。その点については敬意を表したいし、学ぶものがあると個人的には考える。
しかし、科学の視点だけでは追いつかないし、それはコンテキストの中では解釈もされ、全く違う方向性に利用される場合もあるだろう。基本的な考え方の枠組みをこそ、キリスト教の神学が提示するところに必要の意義もあるのだと思う。


この二つの声明の明らかな違いは、NCCが内閣総理大臣あてに出されたものであり、カトリック司教団は日本に住むすべての人にあてて書かれたものであること。この違いが内容においても異なるものとなっていると思う。
しかし、いずれにしても私たちが自らのこととしてこの問題と向かい合うことこそが本当に必要なことなのだ。



2011-11-04

教派を超えて 支援の輪

震災後の被災地・被災者支援は、息の長い支援に新たな備えが必要とされています。
厳しい冬を迎えようとする今、それぞれのキリスト教関係の支援団体が、互いの活動を報告し合い、新たな連携、もしくは共同などを模索することになるのでしょうか。

カトリック、プロテスタント等教派を超えた交わりによってキリストのミニストリーに仕えていくことで、後後には日本のエキュメニズムにとっても意味のある働きとなると思います。しかし、何よりも大切なことは、二重にも三重にも弱い立場に置かれてしまっている大勢の方々への支援。

ルーテルとなりびと: 石巻キリスト教支援団体の連絡会議に出席しました:

http://ameblo.jp/jishin-support-uccj/entry-11066667043.html

http://walknskk.blog.fc2.com/blog-entry-137.html

http://caritasjapan.jugem.jp/

http://baptist.exblog.jp/

2011-10-29

ルターの「教会のしるし」と礼拝の派遣

レイスロップ氏の講演の中でも触れられた大事な視点について前回の要旨では触れていなかったので少し補足したい。
ただし、ここに書くものは、講演の中で語られたことばかりではなく、むしろレイスロップ氏が別の委員会(ルーテル4教団合同の式文委員会)のなかで分かち合ってくださったものも含めて、私がまとめたものと理解してほしい。

公同の(カトリック)教会の伝統を引き継ぎ、保持するにしても、批判的にそれを扱うにしても、その基準となるのはもちろんキリストの福音にほかならない。そして、教会がキリストの教会である限り、かかすことのできない「教会のしるし」がある。ルターはその「教会のしるし」について七つのものを挙げている。もちろん、みことばと二つのサクラメントはアウグスブルク信仰告白に書かれる教会のしるしである。けれども、ルターはその三つに限らず、教会がキリストの教会である限り、こうしたものが必ず見られ、それによってその集まりが教会であるということを知らせ、またそれによって信仰が生きられるものとして数えられたものと言える。
その七つとは、レイスロップ氏の講演によれば

・説教される神のみことば
・洗礼
・聖餐
・共同の祈り
・個人的、あた共同でなされる罪の告白と赦しの宣言
・按手
・聖なる十字架の保持、すなわち、苦難を思い、自らのものとすること

である。

レイスロップ氏は、この中の最後のもの、すなわち「聖なる十字架の保持」いうことをとりあげて、今日の教会がこのしるしを掲げることの意味を展開された。「聖なる十字架の保持」ということは、単に教会に十字架が飾ってあるとか、塔の上についているという意味ではもちろんない。主イエス・キリストが他者の救いのために受難と死を引き受けられたことを、自らのものとすることを意味している。即ち、「他者の苦しみを思い、またそれを自らのうちに引き受けていくこと」こそが、その意味にほかならない。そのことを、ルターがさらに具体的に展開したことが、『ライスニク教会区における共同基金の規定』の序文にある事柄で、具体的に飢えている人たちや困窮の中にある他者、隣人へと心を向け、そのために教会が具体的な働きをしていくことなのである。レイスロップ氏は、私たちがみことばによって他者のために生かされていく、そして具体的な働きに中に用いられていく、そのように整えられていくことこそが礼拝の中に起こされる派遣の出来事であるという。

今日、私たちは、私たち自身のすぐ隣に、苦しみと悲しみのなかに立ちすくむ方々を知っている。その人々への援助に向かうこと、そのために祈ること、またそれら何もできなかったとしても、深く心をその方々へと向けていくことなど。私たちがこの十字架を負うありかたは様々だ。しかし、はっきりとその苦しみに寄り添うていくことこそ、キリストの体としての教会の本来のすがたであろう。
礼拝の意味が、神のミッションへの派遣という意味をもっていることを、この十字架の聖なる保持ということから展開されたことはたいへん興味深いところだった。



(おそらく、レイスロップ氏が挙げたしるしは、ルターが『公会議と教会について』のなかに書いているものだろう。「その中には、1、みことば、2.洗礼、3.聖餐、4.かぎの権威、5.奉仕者、6.神を讃え感謝するいのり、7.聖なる十字架、すなわち苦難を引き受けること」である。また、『ハンス・ヴォルトに対して』には11のしるしを数えている。)

2011-10-24

「礼拝におけるルターの遺産」

昨日の講演内容を、そのままというより私の理解を交えて、以下に短くまとめてみました。

レイスロップ氏は、「ルーテル教会の礼拝におけるルターの遺産」というテーマで講演されました。ルターは礼拝について特別な権威になったり、絶対的な規範を示すことはありませんでしたが、それは一つの礼拝が絶対的なものと受けとられてはならず、ルターが神の礼拝が多様であること、特に具体的な状況の中に働くものとして自由に開かれたものであることを求めたためというのです。
そして、礼拝についてのルター派的アプローチの方法は、二つの原則「保持」と「批判」とによって言い表わされると話された。「保持」とは長いカトリック(公同の)教会の礼拝にある伝統を受容するということを意味しています。また「批判」とは、キリストの福音が際立つために大胆に伝統の個々の要素についてはこれを再構成したり、削除したり、また再強調することなど、積極的に伝統を批判することであります。

 よく言われるように、カルヴァンらが行なった徹底した礼拝改革とは異なり、ルターは多くのカトリック的な要素を残したわけですが、しかし、それでは、どのような批判原理があり、何をもって伝統の受容をしたのかということが問われます。レイスロップ氏は、そこに四つの批判原理をとりあげられました。

①福音の言葉の明瞭性、礼拝の中心、み言葉の説教と聖礼典の執行がはっきりとその福音を示すもののなっているか。つまり、礼拝の順序、構成を含めてまたそれぞれに扱われる式文などの言葉についても、この視点から批判がなされるわけです。その場合の福音の理解においては、信仰を通して与えられる、キリストにおける神の恵みのみによる義認の教理的理解がその内容を確認する大切なポイントです。

②全会衆の参与
ルターの礼拝理解の中では、すべての会衆がこの礼拝に参与することにあります。み言葉は、人々が分かる言葉で語られます。また会衆が歌う讃美歌によって礼拝の多くの部分が構成されるようになりました。聖餐にはおいては、パンとぶどう酒の二種陪餐をいつでも会衆全体が受け取るようになりました。礼拝は、いつでも集まったすべての人に神様が働かれるので、皆がそれに参与するものであるように整えられるということです。

③強制のないこと、
改革はどんな場合でも、強制されないという原則が、具体的なルターのとった方法でした。福音理解による礼拝の改革は当然勧められる必要があるのですが、それはただ「教えと愛」によるもので、強制されるものではないと言います。強制からはなにも得ることがないというのが原則。時間をかけ教育と愛をもって変革がなされる必要性がルターの基本的なあり方です。

④困窮の中にある隣人へと向かうこと。
ルターにとって、神の言葉、キリストをみ言葉と聖礼典の中に受け取ることとは、すなわちそのキリストによって、私たちのあいだの飢えた者たちや様々な困難をもった隣人へと向きを変えられるということを意味しているのです。
礼拝は、神のミッションへの参与であり、この礼拝から派遣されていく出来事に与ることにほかならないのです。

こうした原則が、ルターが教会の伝統的なものを取り入れ保持をするときにも批判的にこれを変革していくときにも大切にされたものです。ルターは決して新しい教会をつくろうとしたわけではありませんし、新しい特別なこれぞルーテル教会の礼拝式であるという規範をつくりだしたわけでもありません。公同の教会としての豊かな営みを確かな福音理解に基づいて整えたにすぎません。ですから、いろいろなやり方があってよいし、特にそれぞれの文化のなかで営まれる限りはそれに相応しいあり方が工夫されるべきと言います。
また、カトリックの伝統という場合も、16世紀になされていた中世の教会のあり方がすべてではないことも私たちは考える必要があります。現代にいたるまで、教会は教派を超えて礼拝の歴史的研究を進めていますし、実際のエキュメニカルな交わりの中で確認されてきた成果もある。そうした研究と交わりに加わり、その成果をどのように自分たちの具体的なところで表していけるかということに積極的に取り組むことも、「保持と批判」の原則のうちに考えられるべきことなのです。

つまり、レイスロップ氏は、ルターがあの時代に提案したものが私たちの遺産なのではなく、ルターの礼拝への取り組み、そこにある原則、それこそ私たちが礼拝を考えるためのルターの遺産なのだと言います。そして、それはルーテル教会だけのものではなくて、むしろキリストの教会全体のものと言えるだろうと氏の見解を述べられました。また逆に、二千年に及ぶ教会の歴史が、あなたの歴史であることも確かなはず。ならば、その歴史にどのようにつながっているのかを考えるべきことが大切なのではないかと問いかけられているように思いました。

レイスロップ氏は、こうした原則を示しながら、さらに具体的な課題をいくつか挙げられました。つまり、次にあげるものが、ルターの時代に特に強調されたことではないけれども、今のエキュメニカルな議論の中で重要と考えられているテーマになっているので、私たちが公同の教会として礼拝を整えていくときに、非常に大切なものとなってきているということです。

①日々の生活や教会のアイデンティティーにとっての洗礼の重要性。
②洗礼を授けるための洗礼準備期間をその人個人の事柄とするのではなくて、会衆全員で憶えていくような用法。
③毎日曜日の会衆によってまもられる主日礼拝における聖餐礼拝。
④エキュメニカルに用いられている三年周期の聖書日課の使用。
⑤豊かな内容をもつ聖餐設定のためのユーカリスティック・プレーヤーの回復。
⑥受難周聖木曜日からの三日間の典礼の回復。

最後に、礼拝における女性の参与とリーダーシップもまた大切な課題であることに触れられて励ましを与えられました。

以上。簡単にと言いながら、長くなりましたね。

2011-10-22

主の聖餐に与るということについて

G・レイスロップ氏は、日本における聖餐の問題、すなわち非受洗者への陪餐についての質問におおよそ次のように答えられたように思う。文書で受け取っているわけではないので、質問に答えられたことを記憶によって、(ということは多分に私自身のフィルターが掛かっているかもしれません)ここに書いてみます。それは、およそ次のような答えでした。

聖餐のサクラメントは、教会において、洗礼を受けた者たちがキリストご自身を見えるパンとぶどう酒において受け取って信仰が養われていくための恵みの手段です。教会はそのようにこのサクラメントを理解し、整えてきたものです。ですから、基本的にはこの聖餐を受け取る者は洗礼を受けた者以外には考えられていないのです。


ただし、イエス様はいつでも罪人と呼ばれた人々、当時の宗教的な群れの中に入れないでいる人、むしろ神の恵みの外にあると考えられてきたような人々のところへいって、その人々とともに食事をされたのです。キリストご自身、当時のユダヤ人の共同体の外に捨てられ、そこで十字架にかけられます。捨てられた人々、除外された人々に対するキリストの十字架の救いの宣教とはそのような働きです。そうしたキリストご自身のありようを考えるときに、改めて聖餐の交わりにさいして、ある人々を除外するという考えがどういうことであるか考えなおされるということはありうることです。


実際には牧会的な関わりの中で、洗礼を受けていない人が初めてきてこの聖餐の恵みを受け取るために手を伸ばしてきた時に、その人に与えないか問われたら、私自身がその時の司式者であったならば、おそらく、その人に聖餐を分かち与えるようにおもいます。ただし、その礼拝の後にその人には聖餐の意味を教えることと洗礼への招きを必ずするようにします。それが、牧師の務めだと思います。洗礼へまねき、信仰の歩みへと導いていくことが、その人には必要なことです。


いずれにしても、忘れてはならないことがあります。聖餐は単なる食事ではないし、またスナックではありません。これを食べる人はイエス・キリストをいただき、イエス・キリストのからだとなるのです。これを受けようという人には、本来はイエス様がお尋ねになられたように、尋ねなければならないのではないでしょうか。「このわたしが飲もうとしている杯をのむことができるのか」。主イエス・キリストと結ばれその命を生きるということはキリストの受難を受け取っていくこと、その十字架をとるということになるのです。そのことを語らずに、済ませるわけにはいきません。そのことを信仰の道として生きるということを伝えることが牧会の大切な働きでしょう。


G・レイスロップ氏の答えは、聖餐というものへの深い理解と日本という宣教の脈絡の現実の問題に対する配慮を合わせもった示唆に富むものと思いました。単純に、その時に聖餐に与らせてよいかどうかということだけを問題にすることよりも、むしろ、これを受け取る人に対して、(洗礼を受けていても、受けていなくても)本当に必要なキリストの福音とそれによって生かされる信仰を分かち合い、支え合うことができているのかどうかが問われるのです。牧会の務めの重さを改めて示唆されました。具体的な課題は、牧会上の問題なのです。

2011-10-21

G・レイスロップ氏の来日



ルーテル・フィラデルフィア神学校の名誉教授でアメリカ福音ルーテル教会の礼拝学の権威、ゴードン・レイスロップ氏が来日。うちの大学の礼拝で説教をしてくださり、聖餐の式にも加わっていただいた。落ち着いてあたたかな人柄は、エキュメニカルな交わりの中で礼拝学のリーダーシップを取ってこられたことをうなづかせ説得力がある。米福音ルーテルとカナダ福音ルーテル教会が2006年に出版したELWという礼拝式文作成の中心的指導者でもあった。
学校の礼拝学の授業での講義のほかに、公開の講演、ルーテル4教団合同の式文委員会でのレクチャーを頂き、また、ルター研究所の秋の公開講演でもお話しを頂くことになっている。
ルター研での講演の主題は、「ルーテル教会の礼拝とルターの遺産」。
宗教改革は具体的には礼拝の改革でもあったから、ルーテル教会のみならず、キリスト教会が礼拝とはなにか、その本質を問う時には欠かすことのできないテーマだろう。

恵まれたプログラムに感謝したい。

2011-10-04

金木犀の風にふかれて



朝に、懐かしい風がふいてきたので、遠い昔の記憶を追いかけるようにして、その風がどこから来るのかあたりを見回した。
大学のキャンパスのなかに咲いた金木犀。
今年も会えたねというように、どっしりとした幹から伸びる枝先にぎっしりとついたオレンジの花に、私も照れくさいような思いを秘めながら、そっと挨拶を交わした。

後期の授業も始まったキャンパスのにぎわいの前、静かなひとときでした。

2011-09-12

講座「スピリチュアル・ペインと魂のいやし」

2011年度の大学主催の専門職講座「いのちの倫理と宗教」。
今年が三回目です。福祉や医療、牧会などの現場で死に直面している人々に関わる専門職の方々のための講座。

http://www.luther.ac.jp/news/110901_03/index.html



毎年、仏教のお坊さんにも来て頂いて、キリスト教に限らずに宗教が「死」の問題に取り組んできた蓄積を現代の中でもう一度とらえながら、自分たちの身近なところでの「死にいく人々」への援助について深く学んできた。今年は、朝日新聞の「こころ」欄の元編集長菅原伸郎氏に来ていただく。
また、昨年に引き続いて、実際に現場で働いておられる方を招くこととした。山谷でのホスピスケアを実践する「きぼうのいえ」の施設長、山本雅基氏。
現代社会の中で、私たちが「死んでいくこと」の問題を深くとらえながら、ともに助け合う生き方を問い求めていきたい。

2011-09-09

大学生への推薦図書⑩ ミヒャエル・エンデ『モモ』

エンデの代表作『モモ』
豊かさを実現するはずの現代世界(資本主義の世界)が、人間を貧しくする。「灰色の男たち」が、密やかに人間の時間を奪っていく。気づかないうちにその人間性が失われる世界とどう立ち向かうべきなのか。モモを代表とする、子どもたちの持つ可能性を新たに見いだす。
人間とはなにか。時間的存在としての私に気づくことからわたしであることを取り戻す格闘が始まるのかもしれない。



児童文学だけれど、深い思索によって捉えられた真実に出逢うだろう。これを読んで、今を生きる自分という存在、その時間性というものが見えてくる。『時間論』への扉が開かれる。

2011-08-29

『神様のカルテ』・・・か。

09年に出版され、話題になった小説が、映画化されて公開になった。

 

ちょうどこの本の出版の前年に、天童氏の『悼む人』が直木賞を受賞している。「死」の問題がかたちを変えてとりあげられた小説だったのですぐに気になったが、飛びつくのはミーハーにすぎるかと、棚に戻したものだった。映画化決定を見過ごしていたが、公開が近づいてにわかに新聞などにもとりあげられて、思い出した。あわてて、先週本屋に行って手に入れたが、著者の夏川草介氏は本当のお医者さん。
医療の現場では、医者は病気を治し、患者は元気なることが期待されるけれど、現実には、それがかなわないことも多い。実際に、今、人が亡くなるなる時は、ほとんど病院という場所で最期を迎えるのだから、医者が患者を一人の人として看取るということは病院であっても日常的なことかと思う。けれど、改めて現場の医師の書かれたものから、そうではないということが分かる。大学病院は、けっして看取ってはくれないのだ。医者が、一人の患者に向かい合うということは希有なことなのだ。
だからこそ、こうした人間らしい医師の働く場所。その心の声が改めて一つの小説となる。



2011-08-10

大学生への推薦図書⑨ 森岡正博『宗教なき時代を生きるために』

現代日本の精神状況とその中で「生きること」の問題と真摯に向かい合う森岡正博氏の小論集。
オーム世代と言ったらよいのか。森岡氏自身も含め、50年代の終わりから60年代の初めに生まれた者たち(私もその中の一人)は、95年のあの事件のさなかテレビに映し出されたカルト集団の中に「自分」の影を見出す世代だ。その彼が現代をどのように見つめているのか。また、どのように「いきる」こと、生命の問題に取り組むのか。その姿勢がよく示された一冊である。



授業でもとりあげている、示唆に富むものだ。

2011-08-08

大学生への推薦図書⑧ 石牟礼道子『苦海浄土』

自然を破壊し、いのちの苦しみを生み出した「チッソ」。大資本の産業構造と人間社会のひずみ、そのもとに言葉を奪われていく民衆の深いさけび。水俣病の被害地に身を置いて、そのすべてについて、透徹したまなざしを注ぎ、力強い筆で記した文学的記録。



大学時代に手にしたこの作品は、私のこころの奥深くに、絶望と希望のありかをさぐらせる土壌の一つとして宿っている。
たとえば、日本で大きな独占的企業が政治的力を巻き込んで、小さく、弱い人々の生活に多大な被害をもたらしているときに、たとえば中国で大きな事故があって、その責任のゆくえがくらまされる時に、この記録が教えるものは大きい。
私たちは何を見ているのか。遠く離れてしまえば、あたかも何も関係のないように生き得る私自身を持て余すほどに、私たちの心は彷徨うのだ。私はどこに立つのかと。
そんな問いかけをもたらす一冊。

2011-08-06

『説教学講義』

久しぶりにいい本に出会いました。
1930年代後半、ドイツがナチス政権によって支配されて非人間的な政策を実現していく道をまっしぐらに進むとき、ドイツ的キリスト教への根源的な反対の立場に立った、イ―ヴァント。教会が真にキリストの教会であり続けるための務めを、ただ説教が語られること、つまり人間の言葉ではなく神の言葉が語られるということに見る。時代を思うと、イ―ヴァンとの一言一言の重みを実感する。
時代のなか、世界の只中に神の語りが起こるということ。その奇跡を私たちが共に与ることができるように説教者は召されているということを改めて思い知らされる著作だ。


牧師であること、説教を語るものとしての召しについて、深いインサイトを与えられる。
牧師・神学生は必読と思う。

2011-07-18

「いま、語るべき言葉 東日本大震災」

待ちに待った夏号が届いた。雑誌『ミニストリー』の特集。

http://www.ministry.co.jp/

各地の牧師の葛藤、いや信仰者の葛藤を真正面から取り上げる。
被災地の状況とそこで見いだされる取り組み。けれど、何よりもみ言葉をどのように分かち合えるか。
私たちの今に、語る神の出来事を見いだしていきたいものだ。

2011-06-03

2011年ルターセミナー

今年のルターセミナーは5月30日から6月1日まで、例年通りの三浦のマホロバマインズで、「宣教」をテーマに開催された。
私の発表は「義認論と現代人の魂の求め―現代日本の宣教的 課題とルター主義」。今、日本というコンテキストの中で、ルター主義に立つ私たちはどのようなメッセージを発信するのか。福音を生きた神の語りかけとして時代の中で一人ひとりの心に受け止める信仰と神学を表したルターの伝統に立つことを今改めて問い返しつつ、今日の宣教を考えたいと、発表したもの。
この発表原稿は、もう一度書き改めて論文としたい。


https://docs.google.com/document/pub?id=1QwMrtcRF1mAONwbneHjQab2Y2uDqKZJuk9LcPj5LMRM

現在、考えていることを率直に言葉にしていきたい。

2011-05-08

大学生への推薦図書⑦ ヴァイツゼッカー 『荒野の40年』

歴史に生きる私たちが、この歴史の中で何を心に刻むのか。
戦後40年という節目に、ドイツの大統領が語った演説。
今年、戦後66年目に、私たちは改めて歴史を心の刻むということの大切さを知らされている。あの原爆の恐ろしさを体験したことは、いったいなんだったのか。ただ、国と国との戦争とか敗戦という視点ではなく、人間、科学信仰、経済優先の社会、人間の権力などが何を生み出していくのかということを見通していく眼差しが歴史をしっかりと見つめること。その時にかたるべき言葉は何かが考えさせられる。



自分が神学大学に進んだ年。1985年のもの。今年、改めて読んでみて、新鮮な響きをもった。

2011-05-02

大学生への推薦図書⑥ レイチェル・カーソン 『沈黙の春』

自然と人間の関係を考察するのには欠かせない一冊。
現代の生活の中に用いられる化学薬品がどれほど自然を破壊し、いのちを脅かすものか。その恐ろしさを突きつけられる。



この本も高校時代に生物の先生に勧められたものだった。もう古いと言われてしまうかも。

2011-04-28

大学生への推薦図書⑤ プラトン 『ソクラテスの弁明』

ギリシャ哲学の古典、プラトンの作品。「汝自身を知れ」、「無知の知」などの言葉で知られるソクラテスの思想と活動の内容をよく伝える一冊だ。対話の中からより真実なものへと向って尋ねて求めていくソクラテスの手法に、理性をもって考えるということあり方について知らされる。
ギリシャ哲学が、世界の成り立ちを探ってきた自然哲学から、人間自身を問い、真善美を求める価値や生き方の問題へと転換していく出発点となったソクラテスを味わえる。




高校の「倫理」の授業で読んだのがはじめの出逢い。近年、哲学入門の授業を担当して改めて読み直した。古典として是非目を通してほしい。

2011-04-20

大学生への推薦図書④ V.E.フランクル『夜と霧―ドイツ強制収容所の体験記録』

筆者自身のアウシュビッツの経験を、精神医学者としての書き記したもの。人間が非人間的に扱われ、生きる希望を奪い取られ、人間ならざる者となっていく様が克明に観察される。その現実の只中で、なお人間として生きるために何が必要なのか、どんな可能性が人間にはあるのか。私たちの生きることの深みを探っていく道案内となる。



今も、授業では必ず取り上げる一冊。
霜山先生の翻訳は格調があるけれども読みにくいという方には、新訳が出ている。

2011-04-16

大学生への推薦図書③ 大塚久雄『生活の貧しさと心の貧しさ』

経済学者、大塚久雄の講演・対談などを集め編んだもの。出版から30年を経ても、現代を捉える視点は示唆に富んでいる。高度経済成長を遂げた日本社会の「精神的貧困」を目の当たりにして、生きることへの真摯なあり方を率直な言葉で語っている。別の著作には、「意味喪失の時代」について語ったものもあるが、この著作の中にも、そうした時代の中に生きる私たちにとって何が本当に求められるのか。あるいは、聖書が何を語っているのかということを丁寧に語りかけている。



この本も、大学生の時に手にとって読んだ。キリスト者として社会科学者として生きる筆者の誠実な言葉に目が開かれた経験を思い出す。矢内原忠雄、森有正、湯川秀樹、内田義彦らとの対談も読みごたえがある。

2011-04-15

大学生への推薦図書② 岡本夏木『子どもとことば』

「ことば」をもつということが、人間を人間たらしめるとさえいわれるが、いったい「ことば」とは何か。子どもの発達過程の中で「ことば」がどのように獲得されていくのか、それがどのように人格的存在としての人間の中で機能するのか。「ことば」への深い理解を、発達という視点から与えてくれる一冊だ。
人間が世界に関わる根源語は「我とそれ」「我と汝」の二つだと言ったのはマルティン・ブーバーだが、この本を読むと、そうした世界との関係のあいだに「人」がかいされて、関係が構築され、広がっていくものであるという「三項関係」をとらえる視点を教えられる。人間は、「他者」との関係を軸にして「わたし」を形成する存在なのだ。


教育を専攻していた時代に読んだもの。私自身の人間理解に大きな影響をもった一冊。

2011-04-13

H. G. ペールマン『現代教義学総説 新版』

教義学の教科書。
                

教義学各項目(神学、啓示、聖書、信仰、神、創造、人間、罪、キリスト、恵み、救いの手段、教会、最後の事物)について、A. 前提、B. 現代の論争、C. 要約という三つの視点でまとめられる。
A. の前提では、聖書的基礎を明らかにした上で、教理史における教義の議論が簡潔にまとめられ、項目に関する基礎的な理解をもつことが出来る。
B. では、現代神学の具体的な課題を取り上げることで、それぞれの教義学項目をめぐってなされている議論を把握できるのと同時に、更なる研究課題へのアプローチの手がかりを手にすることができる。
C. は短いまとめである。
ルター派の神学者の教義学教科書で、良いものが翻訳されていることは幸いなことだ。
神学生は必携で、出来れば2008年に新版として新たに出たものを手もとに置いてほしい。

(2013年11月22日 公開)



2011-04-07

大学生への推薦図書① 丸山眞夫 『日本の思想』

すでに古典の一つといってよいだろう。
日本人の思想の「雑居性」や「無限抱擁性」、また「タコツボ型文化」などの言葉は、日本人である私たちがどのような性質を持っているのかをさぐるのによい示唆を与えてくれる一冊だ。



私自身は、大学生の時に手にした。30年以上たった今も、折に触れて手に取って読み返す一冊である。

2011-04-05

「あれから・・・僕たちは」

「あれから 僕たちは何かを信じてこれたかな」

スガシカオの『夜空ノムコウニ』のはじまりの一節。国民的人気歌手グループがカバーして歌う声が時々テレビを通して流れてくる。
今まで聞き逃してきた、この歌の一節が突然に心いっぱいに響き始めた。

私たちが経験している事柄は、 単純に人生の挫折とか、大切なものが失ったということにとどまらないのだ。それは、「信じるということが失われた」という体験なのだ。

揺り動かし、押し流し、すべてが帰らない。
それまでのすべてが失われ、何も見いだせない。
ただ強いられた喪失は、今までを失ったにとどまらない。

「あれから・・・」

僕たちが経験している事態はこういう時なのだ。
かつてあの哲学者が見据えた事態も、同じ喪失感であっただろうか。

信じるものは いっさいなくなった。

生きてきたことを根こそぎ否定された経験は、私の根拠を見出せなくなる。
もしかしたら、この経験を私自身はもう何年も認めずにきたことかもしれない。


私の生に関わる意思の存在が、もし事実あるなら、私は否定されたものでしかないのではないか。そのような意思を私たちは私の信じるものとして 受け入れることはできないだろう。
しかし、もし、そのような意思の存在がないなら、私たちはやはり信じるものははじめからなかったと知らされるだけなのだ。

自分だけを信じることが もし出来るなら どれほど 幸せなことだろう。
しかし、この喪失を経験した自分のすべては失われたものでしかない。そこに何を信じる礎を見出せるだろうか。

ただ、そうした「私」になお語りかけるものがある。
その語りかけだけが自分をとらえ、呼び出し、生かすのだ。

そう、だからこそ、聞き続けたい。

2011-03-27

神学の問題

アメリカの友人からメールが届いた。
震災のあった後すぐに安否を確認するためにメールが来たが、それから一週間して再度の確認。
今回は特に原発についてのニュースが心配されたことだった。
アメリカのみならず、世界中がレベル6に上がったこの危険に注目をしている。
昨日まで、その存在が何も意識されずに、当たり前のこととしてそのエネルギーを享受してきた私たちに、突然突きつけられた危険は、未曾有の犠牲をもたらす現実を私たちの前にさらしている。
このメールは、私を含めた神学校と神学生の安否を訪ねてくれたのだが、同時に、こうたずねてきた。

「神学生たちは、いま何を考えているか。」

神学生はと言っているけれど、日本における神学する者たちへの問いだ。
私たちは、何を考えているのだろうか。

神学すること。
この大きな二つの力。M9という破格なエネルギーをもった地震やいくつもの町をのみこんだ津波という自然の力。ひとたび制御することができなくなれば周囲数十キロにわたって何十年も汚染をもたらすだろう人工的な原子力。
この二つの力の脅威を一度に目の当たりにして、神学はどのような言葉をもつのか。
神によって創造された世界のなかで人間を脅かす自然の力と、その世界の中に人間によってもたらされることとなった破壊と暴力の力。この暴力はいったい何を意味しているのか。
神の全能、その支配の力を信ずる信仰は、この自然と歴史をどのように考えるのか。
歴史の問題は、かつて創造が完成へと向かう道程として描き出された。しかし・・

問いかけられた私たちは、私たち自身の言葉で考えなければならない。
60数年前の広島と長崎の被爆以上に、この「平和時」に自らの足元に訪れた問題を確かに神学しなければならないのではないか。
説教や牧会、コイノニアやディアコニアなど実践的課題は言うに及ばず。
単なる苦悩や不条理性の問いを超えた、神学的問題を包括的にとらえていく必要がある。
そのための神学の「カギとなるもの」は何か。それが見い出さなければならない。

2011-03-25

震災の支援

日本福音ルーテル教会が、震災の救援のための働きに取り組んでいる。現在、現地、被災した仙台の教会に4名の先遣隊を派遣、緊急の物資を搬入し、また現地の状況を確認している。必要な援助を必要とされているところにいかに届けることができるのか。私たちが担えること、貢献できることを把握しながら、長い支援体制を整えていくための働きである。
日々の情報は、以下のブログ「ルーテルとなりびと」で紹介されている。

http://lutheran-tonaribito.blogspot.com/

実践的な働き。
かつて、関東大震災のときルーテル教会はいち早く老人たちへの救援と、震災孤児たちの支援を行なってきた。それが後の東京老人ホームやベタニヤホームなどの福祉施設として成長し、今日に至っている。
教会がこの世におかれている使命をいま新たに自覚して、受け取り担う時だろう。

2011-03-23

春の訪れは


大学の東門にカンヒザクラが咲きました。
地震以後の対応で、大学は休校し少しずつ「通常」にもどっている。冷たい風が冬を呼びもどしたようだけれども、確かな春の兆しをあちこちに知ることができる。
春を思う余裕などどこにも見いだせない。心は騒がしく、気持ちは落ちていても、それでも確かな時のおとずれは、あの詩編の作者が深い闇の中で暁の確かさに神の恵みを思い起こしたように、私たちがなにを見るべきかを教えてくれるようだ。

恵みの確かさ。

けれど・・
その確かさ・・・を私たちはほんとうにうけとれているのか・・・
「神を恨みます」という言葉にこそ、真実の叫びを感じながら、なお主の救いを分かち合う言葉をどのように持ちえるのか。

四旬節、レントを迎えている私たちは、しかし、今年のこの季節に
今まで、繰り返された問いの前に立ち尽くしつつ、
主の受難の道行を思い、もう一度自らの信仰を確かめる言葉をもとめている。

多くの悲しみと苦しさをやはり他人ごとにしか感じられていない罪深さを思う自分。
同時に、連日の報道を体の奥をよじるようにして感じている自分。
この自分というものにとらわれたもどかしさを感じて、なおこの自分を与えられているということの意味を新たに見いだしたいのだ。

2011-03-09

按手式礼拝 (2011年春)

去る、3月6日、東京教会にて、教職受任按手式礼拝が行なわれた。
日本福音ルーテル教会は、市原悠史氏と浅野直樹氏の二人に按手を授け、牧師として教会の宣教と牧会の現場へと二人を派遣した。按手の重みを深く思うばかりであった。

牧師を志すものは自らが教会の様々な働きに仕えるべきことを考え、神学校での学びを研鑽を積んで教師試験、任用試験を受け、この按手を受けることになる。しかし、これは決して本人の資格や免許の獲得ではないし、また牧師という働きへの就職関門なのではない。
神の召しと、教会による委託の重みを、この按手礼拝において再確認をさせられる。

牧師は、いったいどうして牧師であるのか。
彼は、神のコールによってのみその任に当たるが、そのコールを今は教会を通して受け取るのだ。
だから、教会が牧師を召しだすといってもよい。
ならば、教会はいったいどのように具体的な一人ひとりを牧師として召しだしているのだろうか。
逆に、その人に与えられた神の召しを教会はしっかりと本人と共に受け取っているのだろうか。

今の現実の中で、牧師養成の現場にあって、牧師養成ということの本当の難しさを実感している。

2011-02-28

神学校の夕 (2010年度)

今年は、市原悠史氏、北川逸英氏、浅野直樹氏の三名の神学生を卒業生として送り出すことができた。





夕べでは、それぞれに自分の牧師とされていく今までの歩みを踏まえ、主に従い歩む「道」を語った良いメッセージをしたと思う。一人ひとりの個性が主によって与えられたタラントとして輝いていた。
神学生の卒業は本当にうれしい。。
この中の二人、市原氏と浅野氏が来週3月6日に按手を受け、日本福音ルーテル教会の牧師となる。また北川氏は日本ルーテル教団杉並聖真教会にて4月に按手を受けられる。
神学教育に携わらせていただき、ちょうど10年目を迎えるが、改めて「牧師」が誕生させられるということの厳粛さを思うばかりである。自らを省み、忸怩たる思いを感じつつ、この働きに携わらせていただけていることを重く受け止めている。