2011-10-29

ルターの「教会のしるし」と礼拝の派遣

レイスロップ氏の講演の中でも触れられた大事な視点について前回の要旨では触れていなかったので少し補足したい。
ただし、ここに書くものは、講演の中で語られたことばかりではなく、むしろレイスロップ氏が別の委員会(ルーテル4教団合同の式文委員会)のなかで分かち合ってくださったものも含めて、私がまとめたものと理解してほしい。

公同の(カトリック)教会の伝統を引き継ぎ、保持するにしても、批判的にそれを扱うにしても、その基準となるのはもちろんキリストの福音にほかならない。そして、教会がキリストの教会である限り、かかすことのできない「教会のしるし」がある。ルターはその「教会のしるし」について七つのものを挙げている。もちろん、みことばと二つのサクラメントはアウグスブルク信仰告白に書かれる教会のしるしである。けれども、ルターはその三つに限らず、教会がキリストの教会である限り、こうしたものが必ず見られ、それによってその集まりが教会であるということを知らせ、またそれによって信仰が生きられるものとして数えられたものと言える。
その七つとは、レイスロップ氏の講演によれば

・説教される神のみことば
・洗礼
・聖餐
・共同の祈り
・個人的、あた共同でなされる罪の告白と赦しの宣言
・按手
・聖なる十字架の保持、すなわち、苦難を思い、自らのものとすること

である。

レイスロップ氏は、この中の最後のもの、すなわち「聖なる十字架の保持」いうことをとりあげて、今日の教会がこのしるしを掲げることの意味を展開された。「聖なる十字架の保持」ということは、単に教会に十字架が飾ってあるとか、塔の上についているという意味ではもちろんない。主イエス・キリストが他者の救いのために受難と死を引き受けられたことを、自らのものとすることを意味している。即ち、「他者の苦しみを思い、またそれを自らのうちに引き受けていくこと」こそが、その意味にほかならない。そのことを、ルターがさらに具体的に展開したことが、『ライスニク教会区における共同基金の規定』の序文にある事柄で、具体的に飢えている人たちや困窮の中にある他者、隣人へと心を向け、そのために教会が具体的な働きをしていくことなのである。レイスロップ氏は、私たちがみことばによって他者のために生かされていく、そして具体的な働きに中に用いられていく、そのように整えられていくことこそが礼拝の中に起こされる派遣の出来事であるという。

今日、私たちは、私たち自身のすぐ隣に、苦しみと悲しみのなかに立ちすくむ方々を知っている。その人々への援助に向かうこと、そのために祈ること、またそれら何もできなかったとしても、深く心をその方々へと向けていくことなど。私たちがこの十字架を負うありかたは様々だ。しかし、はっきりとその苦しみに寄り添うていくことこそ、キリストの体としての教会の本来のすがたであろう。
礼拝の意味が、神のミッションへの派遣という意味をもっていることを、この十字架の聖なる保持ということから展開されたことはたいへん興味深いところだった。



(おそらく、レイスロップ氏が挙げたしるしは、ルターが『公会議と教会について』のなかに書いているものだろう。「その中には、1、みことば、2.洗礼、3.聖餐、4.かぎの権威、5.奉仕者、6.神を讃え感謝するいのり、7.聖なる十字架、すなわち苦難を引き受けること」である。また、『ハンス・ヴォルトに対して』には11のしるしを数えている。)

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