2011-10-22

主の聖餐に与るということについて

G・レイスロップ氏は、日本における聖餐の問題、すなわち非受洗者への陪餐についての質問におおよそ次のように答えられたように思う。文書で受け取っているわけではないので、質問に答えられたことを記憶によって、(ということは多分に私自身のフィルターが掛かっているかもしれません)ここに書いてみます。それは、およそ次のような答えでした。

聖餐のサクラメントは、教会において、洗礼を受けた者たちがキリストご自身を見えるパンとぶどう酒において受け取って信仰が養われていくための恵みの手段です。教会はそのようにこのサクラメントを理解し、整えてきたものです。ですから、基本的にはこの聖餐を受け取る者は洗礼を受けた者以外には考えられていないのです。


ただし、イエス様はいつでも罪人と呼ばれた人々、当時の宗教的な群れの中に入れないでいる人、むしろ神の恵みの外にあると考えられてきたような人々のところへいって、その人々とともに食事をされたのです。キリストご自身、当時のユダヤ人の共同体の外に捨てられ、そこで十字架にかけられます。捨てられた人々、除外された人々に対するキリストの十字架の救いの宣教とはそのような働きです。そうしたキリストご自身のありようを考えるときに、改めて聖餐の交わりにさいして、ある人々を除外するという考えがどういうことであるか考えなおされるということはありうることです。


実際には牧会的な関わりの中で、洗礼を受けていない人が初めてきてこの聖餐の恵みを受け取るために手を伸ばしてきた時に、その人に与えないか問われたら、私自身がその時の司式者であったならば、おそらく、その人に聖餐を分かち与えるようにおもいます。ただし、その礼拝の後にその人には聖餐の意味を教えることと洗礼への招きを必ずするようにします。それが、牧師の務めだと思います。洗礼へまねき、信仰の歩みへと導いていくことが、その人には必要なことです。


いずれにしても、忘れてはならないことがあります。聖餐は単なる食事ではないし、またスナックではありません。これを食べる人はイエス・キリストをいただき、イエス・キリストのからだとなるのです。これを受けようという人には、本来はイエス様がお尋ねになられたように、尋ねなければならないのではないでしょうか。「このわたしが飲もうとしている杯をのむことができるのか」。主イエス・キリストと結ばれその命を生きるということはキリストの受難を受け取っていくこと、その十字架をとるということになるのです。そのことを語らずに、済ませるわけにはいきません。そのことを信仰の道として生きるということを伝えることが牧会の大切な働きでしょう。


G・レイスロップ氏の答えは、聖餐というものへの深い理解と日本という宣教の脈絡の現実の問題に対する配慮を合わせもった示唆に富むものと思いました。単純に、その時に聖餐に与らせてよいかどうかということだけを問題にすることよりも、むしろ、これを受け取る人に対して、(洗礼を受けていても、受けていなくても)本当に必要なキリストの福音とそれによって生かされる信仰を分かち合い、支え合うことができているのかどうかが問われるのです。牧会の務めの重さを改めて示唆されました。具体的な課題は、牧会上の問題なのです。

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