昨日の講演内容を、そのままというより私の理解を交えて、以下に短くまとめてみました。
レイスロップ氏は、「ルーテル教会の礼拝におけるルターの遺産」というテーマで講演されました。ルターは礼拝について特別な権威になったり、絶対的な規範を示すことはありませんでしたが、それは一つの礼拝が絶対的なものと受けとられてはならず、ルターが神の礼拝が多様であること、特に具体的な状況の中に働くものとして自由に開かれたものであることを求めたためというのです。
そして、礼拝についてのルター派的アプローチの方法は、二つの原則「保持」と「批判」とによって言い表わされると話された。「保持」とは長いカトリック(公同の)教会の礼拝にある伝統を受容するということを意味しています。また「批判」とは、キリストの福音が際立つために大胆に伝統の個々の要素についてはこれを再構成したり、削除したり、また再強調することなど、積極的に伝統を批判することであります。
よく言われるように、カルヴァンらが行なった徹底した礼拝改革とは異なり、ルターは多くのカトリック的な要素を残したわけですが、しかし、それでは、どのような批判原理があり、何をもって伝統の受容をしたのかということが問われます。レイスロップ氏は、そこに四つの批判原理をとりあげられました。
①福音の言葉の明瞭性、礼拝の中心、み言葉の説教と聖礼典の執行がはっきりとその福音を示すもののなっているか。つまり、礼拝の順序、構成を含めてまたそれぞれに扱われる式文などの言葉についても、この視点から批判がなされるわけです。その場合の福音の理解においては、信仰を通して与えられる、キリストにおける神の恵みのみによる義認の教理的理解がその内容を確認する大切なポイントです。
②全会衆の参与
ルターの礼拝理解の中では、すべての会衆がこの礼拝に参与することにあります。み言葉は、人々が分かる言葉で語られます。また会衆が歌う讃美歌によって礼拝の多くの部分が構成されるようになりました。聖餐にはおいては、パンとぶどう酒の二種陪餐をいつでも会衆全体が受け取るようになりました。礼拝は、いつでも集まったすべての人に神様が働かれるので、皆がそれに参与するものであるように整えられるということです。
③強制のないこと、
改革はどんな場合でも、強制されないという原則が、具体的なルターのとった方法でした。福音理解による礼拝の改革は当然勧められる必要があるのですが、それはただ「教えと愛」によるもので、強制されるものではないと言います。強制からはなにも得ることがないというのが原則。時間をかけ教育と愛をもって変革がなされる必要性がルターの基本的なあり方です。
④困窮の中にある隣人へと向かうこと。
ルターにとって、神の言葉、キリストをみ言葉と聖礼典の中に受け取ることとは、すなわちそのキリストによって、私たちのあいだの飢えた者たちや様々な困難をもった隣人へと向きを変えられるということを意味しているのです。
礼拝は、神のミッションへの参与であり、この礼拝から派遣されていく出来事に与ることにほかならないのです。
こうした原則が、ルターが教会の伝統的なものを取り入れ保持をするときにも批判的にこれを変革していくときにも大切にされたものです。ルターは決して新しい教会をつくろうとしたわけではありませんし、新しい特別なこれぞルーテル教会の礼拝式であるという規範をつくりだしたわけでもありません。公同の教会としての豊かな営みを確かな福音理解に基づいて整えたにすぎません。ですから、いろいろなやり方があってよいし、特にそれぞれの文化のなかで営まれる限りはそれに相応しいあり方が工夫されるべきと言います。
また、カトリックの伝統という場合も、16世紀になされていた中世の教会のあり方がすべてではないことも私たちは考える必要があります。現代にいたるまで、教会は教派を超えて礼拝の歴史的研究を進めていますし、実際のエキュメニカルな交わりの中で確認されてきた成果もある。そうした研究と交わりに加わり、その成果をどのように自分たちの具体的なところで表していけるかということに積極的に取り組むことも、「保持と批判」の原則のうちに考えられるべきことなのです。
つまり、レイスロップ氏は、ルターがあの時代に提案したものが私たちの遺産なのではなく、ルターの礼拝への取り組み、そこにある原則、それこそ私たちが礼拝を考えるためのルターの遺産なのだと言います。そして、それはルーテル教会だけのものではなくて、むしろキリストの教会全体のものと言えるだろうと氏の見解を述べられました。また逆に、二千年に及ぶ教会の歴史が、あなたの歴史であることも確かなはず。ならば、その歴史にどのようにつながっているのかを考えるべきことが大切なのではないかと問いかけられているように思いました。
レイスロップ氏は、こうした原則を示しながら、さらに具体的な課題をいくつか挙げられました。つまり、次にあげるものが、ルターの時代に特に強調されたことではないけれども、今のエキュメニカルな議論の中で重要と考えられているテーマになっているので、私たちが公同の教会として礼拝を整えていくときに、非常に大切なものとなってきているということです。
①日々の生活や教会のアイデンティティーにとっての洗礼の重要性。
②洗礼を授けるための洗礼準備期間をその人個人の事柄とするのではなくて、会衆全員で憶えていくような用法。
③毎日曜日の会衆によってまもられる主日礼拝における聖餐礼拝。
④エキュメニカルに用いられている三年周期の聖書日課の使用。
⑤豊かな内容をもつ聖餐設定のためのユーカリスティック・プレーヤーの回復。
⑥受難周聖木曜日からの三日間の典礼の回復。
⑥受難周聖木曜日からの三日間の典礼の回復。
最後に、礼拝における女性の参与とリーダーシップもまた大切な課題であることに触れられて励ましを与えられました。
以上。簡単にと言いながら、長くなりましたね。
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