自然を破壊し、いのちの苦しみを生み出した「チッソ」。大資本の産業構造と人間社会のひずみ、そのもとに言葉を奪われていく民衆の深いさけび。水俣病の被害地に身を置いて、そのすべてについて、透徹したまなざしを注ぎ、力強い筆で記した文学的記録。
大学時代に手にしたこの作品は、私のこころの奥深くに、絶望と希望のありかをさぐらせる土壌の一つとして宿っている。
たとえば、日本で大きな独占的企業が政治的力を巻き込んで、小さく、弱い人々の生活に多大な被害をもたらしているときに、たとえば中国で大きな事故があって、その責任のゆくえがくらまされる時に、この記録が教えるものは大きい。
私たちは何を見ているのか。遠く離れてしまえば、あたかも何も関係のないように生き得る私自身を持て余すほどに、私たちの心は彷徨うのだ。私はどこに立つのかと。
そんな問いかけをもたらす一冊。
たとえば、
返信削除「水俣病の死者たちの大部分が、紀元前三世紀末の漢の、まるで戚夫人が受けたと同じ経験をたどって、いわれなき非業の死を遂げ、生きのこっているではないか。呂太后をもひとつの人格として人間の歴史が記録しているならば、僻村といえども、われわれのふうどや、そこに生きる生命の根源に対して加えられた、そしてなお加えられつつある近代産業の所業はどのような人格としてとらえられねばならないか。独占資本のあくなき搾取のひとつの形態といえば、こと足りてしまうか知れぬが、私の故郷にいまだに立ち迷っている死霊や生霊の言葉を階級の言語と心得ている私は、わたしのアニミズムとプレアニミズムを調合して、近代への呪術師とならねばならぬ。」
と石牟礼道子はいう。苦しむ者の傍らにあること。そこで自らが何を語るのかはっきりとした意識が示される。「死霊や生霊の言葉を階級の言葉」と心得るからこそ、魂の深みにある言葉が紡ぎだされるのだろう。