2011-12-12

『十字架につけられた神』を読む

久しぶりに、学生とモルトマンを読み始めた。

http://www.shinkyo-pb.com/2008/07/18/post-766.php

今は、オンデマンドで購入することができるらしい。

学科の学生が、授業を聞いている中で、是非に読んでみたいと個人的に取り組み始めたので、「課題研究」で取り組んでいる。(この「課題研究」というのはルーテル学院大のキリスト教学科のみが持っている講座の一つで、いわゆるインデペンテント・スタディーのこと。希望に合わせて教員と一対一の授業をつくり課題に取り組んで一単位を取得することができる。)
今から四十数年前、60年代末から70年代の神学の格闘を改めて確認しつつ、しかし、確かに新鮮な、あるいは今の私たちの状況を深く考えさせられるような神学著作にゆっくりと取り組むことになった。学部の学生には、やや難解だろうが、神学の取り組みに関心を持ってくれたことがうれしい。

学部と神学校で「教義学」の関連諸科目を担当し、教えているけれども、なかなか、現代の問題に向かい合うような授業にまでうまく展開できていないことをいつも実感している。どうしても、伝統的な教義学項目を、順番に聖書的根拠や教理史をたどりつつ、教理・教説の説明のようになってしまいがちだ。もちろん、授業の展開の中では、日本の宗教性の問題や現代の教会の問題、あるいは思想・文化のなかでの神学のことを話したりしているけれども、限られた時間ではどうにもならないジレンマを感じている。また、実際に学部においては、キリスト教学科といえども教会に行ったこともない学生もクラスにいることも事実なので、こうした授業をどう展開するかについてはいつも自問自答のくり返しだ。
ただ、取り組みの中から、なにか生まれてくる。そういう経験を沢山してきたのも事実。教会に導かれていく学生があることはなににもましてうれしい。(大学の授業である限り、伝道しているわけではないのだけれども。)そして、とりわけ専門の領域で、関心をもってもらえるのは喜びだ。

自分の研究に時間がとれないと思いつつも、こうした学生との学びの時間は、自分の中に今一度神学の喜びを思い起こさせてもらえる大切な時とも思っている。自分が考えてきたこと、自分が取り組んでいることをもう一度確認させてもらえるような読書の時間だ。

教会・神学とこの世、社会のつながり。そこに働く信仰。
内向きな現在の教会の姿勢を改めて考えつつ、そこにある問題への深い洞察をしていく視座を与えられるように思う。

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