2011-11-14

脱原発へ 二つの表明

この秋にNCC(日本キリスト教協議会)とカトリック教会とがそれぞれに、原発についての意見を公にした。
この取り組みは本当に重要なものと改めて認識している。
脱原発の主張だ。

http://ncc-j.org/uploads/photos/13.pdf

NCCの「平和・核問題委員会」は原発の危険性のみならず、そこで働く労働者の被曝問題、廃棄物の問題、また副産物としての兵器利用にも言及している。この問題の広い射程をすべてとは言わないけれど、よくまとめて指摘している。
ただし、この問題についてキリスト教の視点における反対の理由、もしくは問題の分析が全くない。これでは、どこの団体がこの声明を出しているのか、ほとんど分からないと言ってもいい。
一般的な意味でのアッピールを考え、また特定の教派神学に偏ることのないように配慮が必要だったのか。NCCという超教派という性格上か、神学的言及を抑制したものだろうが、この点についてはNCCの一員として残念でならないし、責任を感じる。神学のないアッピールなら、NCCである必要はないだろう。

その点、以下のカトリックの司教団声明はクリアである。

http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/cbcj/111108.htm

ここには、短いけれども、「わたしたち人間には神の被造物であるすべてのいのち、自然を守り、子孫により安全で安心できる環境をわたす責任があります」とはっきりと言及し、私たちの生き方の問題として一人ひとりがエネルギーに対する過度に依存した生活態度を改めていく具体性をもって、この主張をまとめていっている。神学が必要だと言っても、こういう声明の中に難しい言葉を長々と書くことが必要なのではない。ポイントを絞り簡潔にそして宗教を異にする人々にも理解される表現は、このように可能なのだ。

NCCの同委員会は、放射能の危険性について深い見地から重要な情報を発信している。その点については敬意を表したいし、学ぶものがあると個人的には考える。
しかし、科学の視点だけでは追いつかないし、それはコンテキストの中では解釈もされ、全く違う方向性に利用される場合もあるだろう。基本的な考え方の枠組みをこそ、キリスト教の神学が提示するところに必要の意義もあるのだと思う。


この二つの声明の明らかな違いは、NCCが内閣総理大臣あてに出されたものであり、カトリック司教団は日本に住むすべての人にあてて書かれたものであること。この違いが内容においても異なるものとなっていると思う。
しかし、いずれにしても私たちが自らのこととしてこの問題と向かい合うことこそが本当に必要なことなのだ。



2 件のコメント:

  1. NCCの「平和・核問題委員会」が即座に声を上げていくこと、問題にたいして不十分さがある恐れがあっても、そこで大切にすべき「人のいのち」、「平和の意義」をしっかりととらえ、行動することそのものの中に、一つの神学(信仰からくる自覚的な考え)があることを言い添えたい。
    発信の内容にそれがないと指摘するはやさしいが、何よりも動いていく姿勢にも学ぶべきだと思った。
    私の言い方にも不十分さがあったかもしれない。その点はお詫びしたい。

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  2. ちなみに、日本福音ルーテル教会の信仰と職制委員会は、同教会の常議員会からの原発に関しての見解についての諮問をうけ、すでに2月の常議員会に「一刻も早く原発を止めて、新しい生き方へ―キリスト者としての『原発』めぐる見解」という答申を出している。いずれ、項目を改めてこれについては紹介したい。

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