2018-12-26

日本ルーテル神学校 神学一般コース 開設❗️

2019年度に、日本ルーテル神学校は新しくなります。
1909年に熊本の地は宣教師館の一室で始められた日本ルーテル神学校は、牧師養成とキリスト教の信徒リーダーを育てることを使命としてきました。近年は牧師養成のための神学校と信徒や専門職育成の大学教育というようにその教育のあり方を整えてきたように思います。特に福祉や心理の専門性をもって現代社会のさまざまな困難を生きる人たちを支えて行く働き人を育てる大学の使命を大きくしてきたと言っても良いでしょう。
 けれども、宣教の困難さと教会におけるさまざまな課題の中で、牧師としての献身者を得ることも難しいということも現実的問題です。教会の働きが弱まってきているのではないでしょうか。神学校は、こうした教会の課題にも応えて、神学とキリスト教の学びを多くの人々のために用いていただけるように準備をしてきました。


 【神学一般コース開設】
神学校は来年度、神学一般コースを開設します。従来の「牧師養成」はそのまま堅持いたします。しかし、それに加えて、信徒の方々やキリスト教に深い関心を持ってくださっている方々には、神学校の学びができるように2年間のプログラムを用意いたしました。正規の学生として、多様な学び方をしていただき、ご自分の信仰の歩みをこの機会としていただくことができます。教派を問わず、誰にでも学んでいただけるコースです。
もちろん、キリスト教への関心を持って、その歴史や聖書を学びたいというノン・クリスチャンの方にも学んでいただくこともできます。

【学費の値下げ】
神学校の授業料を値下げしました。今までの牧師養成のためのコースは年間25万円減額、また新しい神学一般コースは一年間39万円として設定し、学びやすくさせていただきました。
オルガン実技には別途費用が必要となりますが、図書館をはじめとする神学校、大学の施設や様々なプログラムへの参加、ルター研究所やデールパストラルセンターの催しなどもご利用いただけます。

【教会での奉仕のために】
神学校では、オルガンの実技も学ぶことができますから、礼拝や聖書、キリスト教の信仰についてさらに学びながら、オルガニストとして、あるいは礼拝や教会学校での働きに十分な備えをいただくこともできます。
教会関係の諸施設、福祉や幼稚園、保育園、また学校での働きをキリスト者として担っていこうという方にもキリスト教の人間理解やいのちについての深い学びは大きな力になると思います。
他の大学神学部などで学ばれた方で、牧師になるかどうかはまだ決められなくとも、もう少し神学を、例えば新約学や旧約学などの学びを深めたいとか、現代世界とキリスト教宣教について学びたいという方にも、学んでいただけます。

詳しくは、以下のURLへ

2018-12-17

「危機のただ中に立つ牧会 ~あなたを支えたい~」臨床牧会セミナー 2019

日本ルーテル神学校と付属研究所デールパストラルセンターの共催で
来年2月に 第三回となる臨床牧会セミナーを計画している。
日程は、2019212日(火)1500 ~ 14日(木)1200

主題は、「危機のただ中に立つ牧会 ~あなたを支えたい~」


牧会は、様々な人生の危機のただ中に立つお一人おひとりを、神の恵みにおいて支えることを使命としている。けれども、同時に、この牧会そのものが人間と人間のコンフリクトがおこる現場であり、思わぬ形で牧師が信徒を傷つけてしまったり、その逆のことが起こったりする。つまり、ある意味で牧会そのものが “危機の只中にある” ともいえるのだ。

 この牧会の働きを強めていくためには、具体的な課題を学ぶこととともに、働く牧師や教会にどのようなサポートが必要なのか、可能なのか。
ともに学ぶ機会としたい。

 教派を問わず、牧師の方々に、ぜひおいでいただきたいセミナーです。



基調講演:「ぶっ壊して、造り上げる牧会のダイナミクス」(仮)
 講師:関野和寛(日本福音ルーテル東京教会牧師、デール・パストラル・センター所員)

分科会:
   心の病
河村 従彦(イムマヌエル聖宣神学院院長、牧師・臨床心理士、本学大学院総合人間学研究科臨床心理学専攻修士課程修了
    ハラスメント
城倉 由布子(東京女子大学キリスト教センター宗教主事
    結婚・非婚・離婚
堀 肇(鶴瀬恵みキリスト教会牧師、ルーテル学院本学非常勤講師、キリスト教カウンセリングセンター講師、デール・パストラル・センター所員
    高齢者の課題
賀来 周一(日本福音ルーテル教会引退教職、キリスト教カウンセリングセンター理事長、デール・パストラル・センター顧問

開会礼拝/まとめ
   石居基夫(日本ルーテル神学校校長、デール・パストラル・センター所長)

  

2018-11-10

日本ルター学会 2018年度学術大会

発表:「宗教改革500年とエキュメニズム」
昨年の10月31日の宗教改革500年は、今までにないエキュメニカルなセッティングで宗教改革を記念することとなった。もう、宗教改革記念という言い方以上にエキュメニズムと宣教を覚える日として記念することの方が、これからの歴史に向けての大切な一歩になると個人的には考えている。

発表は、今までも確認してきたことで目新しいものはない。特にこの50年のカトリックとルーテルの国際的対話に経緯の紹介という性格を持つ。ルターの福音理解が、今日どのように受け止められているのかということの確認の意味を持つだろうか。
かつて、教会が結果としてたもとを分かつことになった改革の二つの原理が、500年の時を経て、ようやく、その真の意味で働いて、一致の原理になっていることを考えてみた。

以下が大会のプログラム
日時 20181110() 午後130分~5
場所 日本福音ルーテル東京教会

研究発表
 13:30-14:00「宗教改革500年とエキュメニズム」 石居基夫 氏
 14:00-14:30「現代におけるルターの聖餐論」 立山忠浩 氏
 14:30-15:00「新メランヒトン全集について」 菱刈晃夫 氏
休憩15
 15:15-16:00
合同ディスカッション
「宗教改革500周年記念号ルターの主要著作を読む『ルターと宗教改革』7号をめぐって」

2018-10-24

「申命記」を読む〜ルーテル「聖書日課」セミナー〜

聖書日課セミナー(10・22−24)


 三日間、軽井沢の地で、聖書日課セミナーを過ごした。
 ルーテル5教団で、共有する働き「聖書日課」の読者とともに、年に一度の集いが守られている。その集いに招かれて、「申命記」をともに学ぶことだった。聖書学の専門でもない私には、いささか荷の重いことでもあったけれど、改めて深い学びに導かれたことだった。
 モーセの告別の説教という形式でまとめられた申命記。
 でも、もちろんそれがいまの形にまとめられていくのは、イスラエルの民がたどった苦難の歴史の只中で、神を求め、信仰を確認する中でのことだった。とりわけ、アッシリアに北イスラエル王国が滅ぼされて、また南ユダ王国がバビロニアの脅威に晒され、やがてこの国も失われる。多くの人が土地を失い、生活を奪われ、いのちの危機に晒されて、信仰を失いかけていく。そういう時代に、神を生きるということがどんな恵みなのか、力なのか。懸命に綴りながら、その恵みに生きるという具体的な生活の姿を律法に表していったのだった。
 彩られるのは、カナンの地に入っていくイスラエルの民による戦いで、主なる神の聖戦という描かれ方。残忍なやり方を神の言葉と受け取るのには、大きな抵抗を感じるだろう。でも、なぜ、そのように描くこととなったのか。
 私たち人間の罪の現実の中で、神の恵みを受け取り、その計り知れないみ言葉の力を、告白的に記していく人間の信仰の歴史性、その限界を見定める必要がある。それでも、そのように描きながら、何を聞き取ろうとしてきたのか。その営みをこそ、私たちは人間の信仰の器として、申命記における神の啓示を知ることができるように思う。
 
 聖書の言葉を、現代に生きる私たちに今一度語りかける神の言葉として聞いていく、その学びをともにさせていただけたことだった。
 
 
 
 

2018-10-11

秋の講演会〝ルターから今を考える” 

今年も、恒例となった、ルター研究所主催の秋の講演会が開かれる。
1118日(日)14時〜 日本福音ルーテル大森教会を会場としての開催だ。



プログラムは次の通り
      ‣小田部進一「宗教改革から500年後の人間の自由と不安と希望」
      ‣レクチャーコンサート「神はわがやぐら」
                 レクチャー 加藤拓未氏 
        演奏 高橋のぞみ氏   


昨年は、宗教改革500年記念という節目であったが、エキュメニカルな交わりの中で、現代世界におけるキリスト教のあり方を問うようにして、この時を過ごしてきたと思う。
501年目を迎えて、私たちはさらに学びつつ、現代を生きる一人ひとりに福音の喜びを伝えていく使命をはたしていかなければならない。そうでなければ、500年が単なるお祭りにだしてしまうだろう。このプログラムを、学びの一助にしていただければと思う。

2018-09-22

2018年 子どものためのグリーフサポートを!!

 今年、全国で大雨や台風、地震などによって、多くの命が失われました。そして、遺された家族は大切な人を喪い、深い悲嘆を経験しています。表面的には、元気そうに片付けや再建に取り組んでいるようであっても、深い喪失の体験が心にも体にも経験したことのない痛みを残しています。ことにも、子どもたちは、一見すると今までと少しも変わらない無邪気さと笑顔を見せてくれるのですが、言葉にならない重い何かを心の奥にしまい込んでいるかもしれません。
 もちろん、自然災害ばかりではなく、病気や事故で愛するものを失うことは、誰にとっても大きなストレスとなります。小さな子どもたちは、元気でいることが喜ばれることを知っていますから、意識せずに普通の自分を取り戻そうとするのでしょう。けれども、ふとした時、涙がこぼれるし、力が出なくなったり、表情がなくなってしまったりします。
 デールパストラルセンターでは、こうした子どもたちのグリーフケアのためのグループ活動を行ってきています。http://www.luther.ac.jp/lutheran/news/20180402-03.html

 この集まりを継続するためには、専門的な眼差しを持って、この子どもたちを見守っていくファシリテーターが必要です。今年も、子どもたちのためのグリーフサポートのグループ ファシリテーターの研修会を行います。下記の要領をご覧ください。






2018-09-03

講演会『こころに重荷を負う人とともに』

今年、第5回になる、デール記念講演会のお知らせ。
 デールパストラルセンターでは、毎年一回、教会の牧会的な課題に関わる講演会を企画してきています。今年は、10月6日の土曜日の午後一時半から、日本福音ルーテル東京教会を会場にして開催致します。テーマは、『こころに重荷を負う人とともに』講演者には、カトリック・イグナチオ教会の主任司祭、英 隆一朗先生をお迎えいたします。


 現代社会のさまざまな課題やストレスは、わたしたちの日常における具体的な関係を傷つけ、またこころに大きな重荷を与えているように思います。わたしたち自身も悩みは多いし、心病む方々が教会を訪れることも少なくありません。また、わたしたちは、信仰的な問いや信仰ゆえの苦しさなども抱え込むものです。
 わたしたちが、どのようにこの「こころの重荷」に向き合い、また対応したらよいのか。共に学んでいきたいと思います。

http://www.luther.ac.jp/lutheran/news/20180821-01.html




2018-08-29

2018年度:一日神学校 「あなたと共に」 

毎年恒例の一日神学校、今年の開催は9月24日(月)の振替休日です。
今年のテーマは「あなたと共に」。


教会の礼拝では、司式者と会衆が交互に「主が、あなたと 共におられるように」と挨拶を交わします。この挨拶は、も ちろんわたしたちの間で交わされるものですが、同時に神様 の祝福を祈ることばでもあります。
本当に短いことばのやり取りですが、そこで相手が持って いる困難や悲しみ、あるいはそのときに抱えている責任や働 き、その人の人生に対して神の恵みと導きを祈るものだと 言ってよいでしょう。そして、その祈りの応える神の恵みの み業の中に、わたしたち自身が用いられ生かされていくもの でもあるのです。 ルーテル学院大学、神学校は、主に仕え、人に仕える他者 支援の専門職を養成します。誰かの生活、心、魂の問題に寄 り添い、神様の恵みを分かち合うものとして生かされていく のです。そして、それはきっと、誰かのためというより、「あ なたと共に」と呼びかけ合い、わたしたち自身が共に生かさ れていくということなのです。

 私、石居も午後に講義をいたします。
講義タイトルは「共に生きる」ための神学。
 宗教改革 500 年の記念を終え、いま、新しい時代にこの世に福音を宣べ伝える使命をわたした ちはどのように生きるのか。ルターの神学に学びつつ、わたしたちの教会の宣教の業を神の 大きな恵みの働きのなかに捉え、わたしたち自身の信仰の生活を考えてみたいと思っています。
 現代社会のさまざ まな課題のなかに生きる人々と共に生きるための神学を皆さんと共に学びましょう。


「あなたと共に」と生きる恵みを分かち合う、今年の一日神 学校へ、どうぞおいでください。

全体のプログラムは、以下の通りです。






2018-08-13

「大切な人を看取るために」

ディアコニア講演会の企画。
「大切な人を看取るために」
日時:2018年9月2日午後2時から4時
場所:特別養護老人ホーム ディアコニア(静岡県袋井市山崎5902-167
主催:日本福音ルーテル新霊山教会
後援:社会福祉法人デンマーク牧場福祉会

私たちは、かつては大きな家族として何世代かが一緒に生活をともにして、老いや病でこの世の生涯を終えていく者たちを看取り、その死を受け止めてきた。そうして、今与えられている生の時間の限りあることも、またその時が来れば思いのままにならない不自由を経験しなけらばならないことがあることも、きっと自然に知ることだった。そうして、その命を生きる重みを知ってきたのだろう。
だから、いざ、自分の順番が来たときにも、自分の死を自然な中で受け取って来たし、看取ることも日常の中にそれを成し遂げて来たに違いない。
けれども、現代社会では様相は全く違っている。私たちにとって、私たち自身の「死」の姿は「病院」の中に委ねられ、隠されてきたのだ。死の覚悟もできていないし、看取るといっても、何をどうしたらいいのか、右往左往してしまう。
最期の時を、在宅で、あるいは施設や病院で過ごしていく家族に、私たちはどう向かい合うべきなのか。
ともに考え、学んでいきたい。


こうした、講演会の要請には、できるだけ応えていきたいと考えている。けれど、むしろそれぞれの現場での実践をともに研究したり、学んでいきたいと願っている。研究会のような形で、1年に一度でも企画したいということがあれば、ぜひに学ばさせていただければと、願っている。

2018-08-10

「霊的な力」の問題 ②

「霊的な力」ということを、私たちはどのように考えるべきか。

 こういう言葉は誤解を生みやすい。特に、日本の文化社会の中では、「霊」を私たち自身の霊魂ということを表すのと同時に、祖先の霊とか、守護霊とか、そうした目に見えない「霊」の存在ということを思い浮かべやすい。そして、そうしたさまざまの「霊」に包まれるようにして、人間にある種の特別な「霊能力」のようなものが与えられると考える傾向が強い。それは、目には見えないけれども、実際のこの世界の様々な現象を左右するような力のことだ。「霊」との特別な交流を通じて、現実を動かしていくような「力」というような意味であろう。だから、「霊的な力」は霊視、予言、物体移動、幽体離脱、また降霊、憑依などの超自然的な能力を考えてしまうのだ。
 実際、オウム真理教でもそうした特別な能力が修行によって得られると教えた。麻原の座禅姿の空中浮遊などもその典型だろう。




 しかし、キリスト教信仰において、私たちが「霊的な力」ということを考えるときには、そうした超自然的特殊能力のようなものを考えるわけではない。
 ものすごく単純に言えば信仰そのもののことをいう。聖霊の賜物。コリント一12章1〜11節にあるような、信仰の益となる働きをもたらす力であり、具体的には教会を立てていく働きを担い、キリストの体として連なるものとして神がわたしたちに働いて、わたしたちを生かすということなのだ。ガラテヤ書5章には、聖霊の実として「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」が数えられている。けれども、こうした言葉にしてしまった途端、「霊的な力」と言われるところのものが、頭でっかちな理屈の中に閉じ込められてしまうように思う。つまり、これらの聖書的な言葉は、間違いなく「霊的な力」を示しているし、説明にもなる。けれど、そこに止まる限り、決して、本当にはその力の豊かさが見えづらくなるように窮屈に感じてしまう。


 生き生きとした、感性。
 こうして、説明を始めると、途端にそうした霊的なものから遠のいてしまうようなもの。しかし、確かに、私たちが信仰において与えられる感謝と喜びの湧き出てくるところ。そういう出来事が私たちのうちに生み出されてくることこそ、「霊的な力」を見出すところであると思うのだ。

 人と人とが、ふれあい、支え合うところに見出される優しさと安心感。共感するときに震える心。あの赤い夕焼けを見て心にしみてくるような懐かしさ、暖かさ、柔らかさを受け取り、また分かち合う自然な振る舞いやことば。本来私たち人間が共に生きるように与えられた、何気ないいのちの支え合い。繋がり。私たちはそうした与えられていた自然を
自己の罪のゆえに歪め、失ってしまっている。それなのに、この素晴らしいふれあいと繋がりは、恵みによって、導かれて私たちのうちに動き出す。
 そのほんの一瞬。罪でしかない私を破り、溢れ出てくるように感じられてくる何か。
そこに「霊的な力」の場があるのだ。私のものではなく、私をその働きの場とする「霊的な力」の存在。

 2000年前、イエスにおいて最もはっきりと示されたものだ。貧しい人々に深く関わり、病人を癒し、悪霊を追い出すような働き。皆がその小さな出来事の中で、「霊的な力」を味わったに違いない。

2018-08-01

「霊的な力」の問題 ①


あれだけ多くの信者を獲得したオウム真理教。教祖麻原の個人的な権力による悪しき支配が、教団を狂気の集団としてしまったわけだが、しかし、そもそもあの新興宗教団体になぜ、あれほどの信者が、しかも科学者や医師、弁護士などの理性的エリートたちが入信していったのか。

私のこのブログを読んでくださった一人の方*が、ご自身の見解を送ってくださったのだが、そこには次のように書いてあった。

「しかし、このような人物に騙された多くの若者がいたとういうことは、その教えに一定に魅力があり、それが当時の時代状況に適合していたのであろう。」

この教団の「魅力」は、一体なんであったのか。いろいろな形で今回の事件をうけてこの教団信者の実際については報告も出てきているわけだが、実際にみえてきていることはわずかでしかないのだろう。だから、一概にこの教団の魅力が何であったのかと断定的に述べることはできない。しかし、想像するところ、やはりそこには麻原の持っていたカリスマティックな言動によって人心が捉えられていったことだとが大きかったと推測される。

教団に何かを求めてきた一人ひとりは、社会への問題意識も含めて、自分が生きる現状に対し何らかの行き詰まりとか疑問をかかえていた。その彼らに対して、まずかなりはっきりとした受容的、肯定的なコミュニケーションを持ったこと、そして同時にその自己の問題性をすこしでも好転させていくための自己改革について具体的な修養プログラムを与えていること。その取り組みへの動機付け、また成果に対する報酬をしっかりと示していったこと。また、信徒同士に競争意識をもたせることなどの手法、麻原自身が模範となって取り組みの目標とすべき姿を示していたことが多くの信者を教団へと駆り立て得る力であったと思う。
 
そう思うと、これらの手法が人間の心理を見事に捉えたものであったというだけでのことと理解される。
けれど、そこでとどまっていると、「なんだ、やっぱり奴らの勧誘が手の込んだわなみないなものだったということで、正統なものが受け入れられないということは普通のことだ」ということになり、ひいては、「受け入れられないというところに、正当性というか真実があるとも言える」などというへんな理屈に堕していく可能性がある。
そんなことでは、結局、主の福音を求めのある人たちに届けることへの責任が果たせていないという現状にあぐらをかいてしまいかねない。



先ほど紹介した寄せていただいた意見は、次のように続いている。

「そしてこれらの若者の魂の渇きに答えられなかった既存宗教にも責任があろう。 私の信仰するキリスト教では何が足りないのだろうか。教義が難しい、外国の宗教で日本人の感性に合わないなどいろいろな考え方があろう。しかし私が一番足りないと思うのは、霊的な力だと思う。いくら論理を積み重ねても宗教を信じることはできない。」

「霊的な力」。キリスト教、特にプロテスタントの諸教会では、説教重視で、「言葉」の宗教とさえいわれる。しかし、そのことばに霊的な力があるのか? わたしたちに求められる「霊性」とは、いったいどのようなものなのだろうか。このあと、すこし考えてみたい。


*このお方、許可をいただいた。
  藤原 学 様(日本基督教団金沢教会信徒)


2018-07-16

「オウム真理教」を考える④


信徒一人ひとり、次第に教団の狂気に巻き込まれていく。

しかし、そもそもその「信徒」は何を求めていたのか。
そこには極めて真面目な動機があった。そして、彼らはその誠実な性格であったことで、今回の教団の狂気に気がつかないのだ。なぜ、気がつかないのか。彼ら自身の言葉によれば、「『自分の考え』というもの自体が自己の煩悩であり、けがれである、として自分の疑問を封じ込めるように」なったという。完全な思考停止だ。それこそ、かなり高い教育を受けてきたはずの信徒たちが教団の狂気に気がつかないようにされた原因なのだろう。

(2018・7・14 朝日新聞朝刊)


ただ、そのような彼らは、なぜ教団の扉の中へと入っていったのか。

彼らが教団に「真理」を求めていたかどうか、「それは留保したい」と、以前書いたが、そもそも「真理」ということがいかなるものか、という議論を差し置いてこのようにいうこと自体生産的ではない。言いたかったことは、おそらく彼らは論理的、普遍妥当性をもつ「真理」を求めるつもりではなかったのではないかということだ。問題はむしろ、もっと実存的な問いではなかっただろうか。

 なぜ、自分が生きているのか。生きる目的は何か。
 私が私であるとは一体どういうことなのか。

現代の学歴社会で成果をあげてきた彼らの多くは、問いには必ず一つの答えがある、と正解を求める学びを生きてきた。しかし、人生を生きるということには参考書も正解一覧もない。よい大学、よい会社を目指すことのために、人生の多くの問いに立ち止まることはゆるされなかっただろう。
しかし、80年代の終わりから90年代のはじめバブルの時代は、膨れ上がっていく欲望の個人主義の中で、時代は将来へ向けての不安に傾いていったように思う。大学を出て、社会の一員となって生きていた彼らは、この漠然とした不安を沢山の娯楽や消費生活の中に引き込まれながら自分のものとしていったのだ。
その中で、生きることへの問いは、具体的な自分たちの生活の明日をどのように、なんのために生きるのか、という極めて個人的で実存的な問いとなった。だから、社会が何かをいうのではなく、私がこのことをどう感じ、何を考え、どう行動するのか。その自分の生きる確からしさを求めていたように思うのだ。

今でいうところの、スピリチュアルな問い。スピリチュアルなニーズが、やはり彼らの教団へと向かわしめた最も大きな理由だろう。

価値観も多様化し、不安な時代に、「断言」する力強さ。麻原にはそれがあった。強い信念を持って生きることへ、揺るがぬ確かさを示されたときに、おそらく、彼らはそれに惹きつけられていったのではないか。

しかし、そこに疑問をもつことは許されなかった。それこそ、この教団の秘密だ。
自由に批判できない社会は、小さな組織でも国家のような巨大な組織であっても、全く同じように、悪魔の支配に身を譲り、思わぬ暴走が自らを危うくするばかりか、他者を、世界を崩壊させて行くような脅威となりうる。

彼らは、その悪を自らのうちに引き受けてしまう。しかし、彼らはそれが悪とは思えなかったのだ。麻原の考えを生きることが、すなわち、世界のためであり、人類のため、私のために最もよい、確かなことと信じていたのだ。


2018-07-11

「オウム真理教」を考える③

あらゆる宗教に起こり得る狂気は、まず教団の内部における権力による暴力的支配の問題だ。社会に対するテロは甚大な問題だが、隠されていてあらゆるところにはびこっているという意味ではこちらはこちらでタチが悪い。そして、その意味でいうと、公式的なその宗教の言葉には表されない、極めて具体的で個別的な問題として存在するという意味でも、この問題は難しい。

おそらく、純粋な形での何かを求める信徒とそれにふさわしい?修行と霊的ステージを提供する教祖および教団組織という関係は、容易に、今でいうハラスメント的な力関係に陥ったことが想像される。霊的権力者が支配する構図。信徒の思考停止なるものは、「宗教だから」ではない。このハラスメント構造の中で生き延びるための服従の論理がこれをもたらすのだ。そして、おそらく積極的にこの論理に生き始めた者が自らをやはり正当化する時に、この一定の思考形態の中にはまり込んで、積極的にこれを補強する思考のみが強化されるのだ。

これが始まると、この宗教教団は暴力の支配する団体に変貌する。
圧倒的な権力・権威が支配する構図は、それを認め、受容し、かえって助長する被支配者たちの関係が保たれるように相互依存の現象も作り出すだろう。

この恐ろしさは、もちろん、カルト教団に限ったことではない。クラスでも、家族でも、恋人同士、会社でも、大学のサークルでも、宗教組織でも、どこでも作られる。
しかし、一旦これが成立してしまうと、崩しがたい。むしろ、その「カタチ」の正当化が暴力をさらに生み出す。これによって、どんなにそこに良いものの要素があっても、その組織自体が悪の製造マシンになっていくのではないか。

「ポアする」という言葉で、罪をおかさせないという理由づけを持って殺人を正当化する論理は、人のいのちと尊厳性を無視して、抽象化された宗教的言語の歪んだ理解だ。けれど、それを気がつかせない、気づいても止めることを許さない霊的?権威が支配するとき、この教団が何を提供するものと堕していったかは明白だろう。

独裁が生み出す危険な暴走は、かつて学生運動(連合赤軍)にも現れただろうし、ナチスなどの国家支配の形もとる。悪魔の構造だ。どこにでも現れる。宗教という最も善に満ちていると信じられているところほど、その罠によってこの悪を招き入れることになりやすい。
カルト教団と呼ばれるものの反社会性の根っこは、ここにあるのではないか。






「オウム真理教」を考える②

彼らの求めたものは、言葉以上の「真理」であったのではないか?
(いただいたのは「真実」という言葉だった。記憶違い。この違いは重要だと思うので、改めて考えたい。)

問いかけに 私は少し戸惑いを覚えつつ、考えさせられている。
まさしくそうだと、思う。そうなのだ。彼らの求めたもの、彼らを捉えたものは「言葉」ではなかっただろう。
しかし、私のうちに起こった戸惑いは、「言葉」へのこだわりを私が持っているからなのだ。それは、捨てるべきものなのだろうか。
そして、もしそうだとしたら、いやそうでなかったとしても、彼らの求めたものが「真理」なのかということには、少しく留保をしておきたいように思う。

言葉とは何か。真理とは何か。

まるでヨハネ福音書に登場するピラトのように、私はこの問いかけの前に、どのように答えるのかと、自問しているのだ。

言葉が単に言葉であるということは、一体どういうことなのだろう。言葉以上のものを持たない、言葉というものを考えることが難しい。
だから、もし、彼らが言葉以上のものを求めたというのであれば、それは大変にわかりやすい。彼らは、単に言葉による知識を求めていたのではないのは明らかだ。

そして、それこそこのカルト教団が提供するものであったことは間違いない。
「修行」であり、それによって得られるとした「霊的ステージ」こそが、彼らの求めたものだっただろう。それを高めることは、彼らにとっては学歴社会で偏差値をあげるがごとくに、彼ら自身を駆り立てる原理だったと思うのだ。この霊的ステージが高まれば、そこには人間のの持つ一般的な能力を超える世界が開ける。今なら、さしずめゲームによってステージをクリアして行くと、次のステージが開けるのと似ているかもしれない。そのひらけてくる世界は、一般には理解され難いかもしれないが、それこそ彼らの求める新しい世界だ。ある種のエクスタシー。りんかい線を超えた境地が開かれるのを「体験」していく。修行の力。

もちろん、それに至るまでにも、彼らの中に経験される教団内の「人間関係」「信頼」「存在の肯定」なども、現代社会の中では簡単には経験できない、親密なそして厳しさの中で得られる真剣さを与えるものだったと思う。多くの信徒は、まるで父親に怒られるかのように真剣に向かい合ってくれる「尊師」の言葉を求めただろう。常に優秀で周囲の期待に応えることができてきた人々には特にもこんなに真剣な向かい合いを経験することは滅多になかったことだったに違いない。そして、おそらく皆が深い自己省察へと導かれただろうし、そこで厳しく自己否定への契機を受け取っただろう。そんなことは、経験したことがなかったことだ。これは、修行そのものへの道筋を作って行ったことだろう。

そして、新しい自分を作る。そうした人(信者)が増え、教えが広がって行くことで、必ず新しい社会も開けてくる。小さな物語は大きな物語の中に位置づいて行く。その実感。
極めて情緒的でもあるけれど、単純で明快なストーリーを語ってきたのではないか。
それは、その実体験こそは彼らの求めたものだったのではないかと思う。
生身に感じる確かさ。
それは「真理」を求めたものであったのか?

しかし、こうした体験のすべてをは言わなくとも、宗教は皆うちに持ってきたものだ。
「オウムが怖い」は、「宗教が怖い」となって当然ということだ。

では、何が違うのか。カルトとそうでない宗教と、何処が分岐点となるのか。その違いは、言葉によって確認されてこなければならないのだと、そう思っている。言葉を超える何かを示す。しかし、そこに語られる言葉が、その人にも世界にも何を作り出そうとしているのかを確かめる唯一の道なのではないのか。
言葉へのこだわりを、私はやはり捨てる事はできない。



2018-07-09

「オウム真理教」を考える〜なぜカルトに?⑤

誰もカルトに入ろうと思うわけじゃない。
しかし、それに捉えられていくのは、現実の世界の中での生きることの息苦しさにあろうか。
この世では、もろもろの評価によって自分がはかられてきた。よい成績、よい学校、よい会社、よい結婚。一流とまでいかなくても、社会的な評価のあることや収入の確かなことで中流以上の自分を作り上げられねばならない。いまだったら、そこからのおちこぼれは負け組といわれようか。でも、わたしたちはいつでもそんなふうに上手くいくわけじゃない。そうなったときの喪失感はわたしのいきることを根底から揺さぶるのだ。
親も、子どもを愛していると言いつつ、どんな「立派さ」であるか、それが気になって仕方が無いのでは。その「立派さ」に至らないなら、まるですべてが失敗であったかの如くに落胆する。
そういう世界に生きるわたしたちの心には、自分の存在そのものを認めてもらえているのか。自分の人生の生き甲斐や、生きる意味、目的などが分からなくて、不安や恐れがみちている。むしろ、「よい」とはなにか、「立派さ」とはなにか。そんな漠然としたものに捉えられていて、自分が見えなくなっていく。本当は自分はどう生きていくのだろう。何をするために自分がいるんだろう。
安定した社会生活のなかでだって、そうしたことが「むなしさ」として表現されたのが、あの時代に信者となり、幹部となっていった「優秀な」ひとたちのなかに少なからずあったのだろう。
まして、何かの理由で、成功もなく、認められることなく、むしろ居場所がないと思ってしまった若者の、こころの空洞、生きる力を見出せない苦しさ。それがカルトと呼ばれる集団であろうと、そこにいったら全くちがう世界が開けているとしたら、そこに魅了されるということもありえよう。
現実とは全く違う別の世界で、生き直せる。それが認められる。それが与えられる。努力はすぐに評価される。大事にされる。いままでを全部ちゃらにして、そこではじめなさいってそう言われたら、そう信じられたなら、別の世界へ行きたくなる。
はっきりとした目標が立てられ、支援され、計画が与えられて、自分が位置づけられる。
努力は報われる。

この世からの、完全な逃避を実現する。

カルトは、そんなふうに一人を誘うのかも知れない。
この世界に生きることの、つらさ、不安、おそれ、罪深さに耐える力がなかったなら、別の世界に逃げたくなる。そういうものかも知れない。

「オウム真理教」を考える〜なぜカルトに?④

二元論的世界観。

この世を善と悪が入り混じった世界とみる。まあ、誰が見てもそう見える。
しかし、その善と悪の混在は現状で良いとは思えない。このままでは解決できないし、世界は善に向かって欲しいとそう願う。
そこで、何が悪いのか。そして善はどこに見出されるのか。これが結局はそんなに容易には見出されないが、一定の修行の中でこそ、到達できることがあるということになる。

基本にあるのは、教団が善を持っており、この世界は悪に翻弄されて善が見出されにくいものだということだ。善悪二元論で、教団を絶対の善として、この世を悪と単純化して行くことが、教団の論理に引っ張り込む最も巧妙な隔離作戦だ。

教団に属することだけが、善に身をおくことになる。そこで導かれて行くことこそ、この世の悪に打ち勝つ方法だ。そうして、この世からの隔離への誘導する。
ホウレンソウ。報告、連絡、相談。これで教団の指示系統にしっかりと位置付けられて、一般社会との距離を作り出す。家族との関係よりも教団との結びつきの中に生きるようになる。家族への愛情は、認められるが、その愛情は家族を救うことに真実の愛情を見出させられるし、そのためには、まず家族からも離れて自分がしっかりと善に生きることがなければならないと思わされる。

教団への出家は必然となる。

オウムでは、おそらく自己の無限の可能性、その霊的、宗教的力(空中浮遊・幽体離脱など)を修行によって得ることや最終解脱への厳しい修行に入って行くことで、このよの悪に打ち勝ち、善なる世界への道を求めるように、教えられただろう。

その厳しさは、当然自分が求めたものだから、それに責任を持って取り組むし、その結果については教祖からの重用によって、地位を得ることによって報酬を得て、満足させられる。自分の中のあやふやさは、この教祖の絶対的な権威とそれによって生まれている力に頼ることで、解消されて行く。教祖が実際に力があるかどうかなど、もはやあまり関係なくなって、そうあってもらわなければ、託してきた弟子たちの存在そのものが揺らいでしまうのだ。だからこそ、弟子達は自分達のために教祖を持ち上げておかなければならないし、その権威と権力を絶対化して行くのだ。

そうして、教祖は絶対の善になって行く。この教団の中だけに通用するものだが、この教団で通用することが、全ての基準となって行く。弟子達はこの中での完全な生活によって、全てが賄われることを皆で作り上げていったのだ。
省庁が置かれ、大臣のような地位が作られて、小さな国家として成立して行くのは、彼らがこの教祖による世界を必要としたからだ。

やがて、この国は、現実の国に取って代わらなければならない。そういうところに追い詰められる。この世の理屈は、この教団には相入れないからだ。

終末論は、この教団と世界の相克によって彩られることが定められている。テロに向かう準備が出来上がるわけだ。

教祖により洗脳、教団によって押し付けられた理想。しかし、それは所属した自分達の選び取ったもの、自分達が共有していた世界であって、おそらく、信者の誰も洗脳されたとは思っていないのでは。そこにこのカルト共同体の恐ろしさがある。


「オウム真理教」を考える〜なぜカルトに?③

人は自分のしたことを正当化する。これがのめり込んでいく時の心理だ。

情報は、信頼した相手から丁寧にもらう。しかし、その上で、短時間で次のステップへの決断を迫られると、自分の判断は誘導されやすい。自由な選択のはずが、強制されているのだ。それに気がつかないのが私たちの弱さだ。しかし、自分が選んだということが自分の行動への責任感を伴わせる。
自由選択と自己責任。
この原則は、私たちの日常に染み付いた行動原理だ。しかし、本当に自由だったのか。
カルト教団は、上手に私たちを誘導する。

今だったら、SNSなどの世界は、ほぼ一つの方向で意見が集まれば、その類いの情報ばかりが自分に送られてくる。リベラルな人にはリベラルな意見ばかりだし、保守的な人のところにはそのような意見ばかりが集まる。そうなると、異なる考えは、自分の中に何の存在根拠もなくなって行く。
情報操作は、今の時代容易なことなのかもしれない。
そういう情報の中で自分の行動が求められると動いて行く可能性は高い。そして、動いたら、その自分をそこに所属するものとして位置付け始めるし、その行動への責任を感じて行く。どこにでもあることだから、一般の社会でこれに当てはまらない集団はないだろう。カルトとの区別はつきにくいかもしれない。しかし、カルトは次第に次のステップへと私たちを誘導する。それが二元論的な世界観だ。



「オウム真理教」を考える〜なぜカルトに?②

集会などにいくと、思ったほどには強制はない。
むしろ、自由な雰囲気で優しい気遣いで迎えられる。これが信頼関係を築く。
他でぞんざいに扱われていると、こうした丁寧、親身な対応に心は傾く。
現代社会で希薄になっている個人的な信頼関係こそ、カルトが最も上手に使う手口だ。
 (あ、もちろん異性が対応することが多い。その半分恋愛感情を誘うようなやり方は常套手段だと知っておこう。)

その信頼する相手からの頼みごとほど、断りづらいものは無くなる。だから、この信頼関係の構築には時間も労力も惜しまない。ひと月ふた月、半年と本当にじっくりと責めてくる。(むこうは一人で複数を相手にしながら、時間をかけても量産していくシステムだから、全く問題ない。)そういう関係を築きながら情報操作は始まっていく。正しい判断をするのは、正しい情報によるしか無いが、長い時間をかけて情報の片寄りをつくらされていくわけだ。
 勉強会や、集会は、そもそもこちらの関心事に沿っているのだが、そこに次第に深い誘導が始まる。例えば、平和の問題に関心があるからといって、何か特定の平和のための署名活動などに自分が主体的に関わるかどうかは、全然別の話なのだけれど、関心があるなら、少しでもそれに関わるといいと、誘導される。参加の仕方は自由。どこか街頭に立つこともあるかもしれないし、それぞれの生活の中での家族やサークルで、ちょっとした依頼で誰かの署名を集めることなどを求められれば、いやとは言えない。
一旦引き受けると、これに少しでも結果を結びつけようと努力する。真面目な人間ほどそうやって、自分が活動に熱心になっていく。
この活動が目指すものは、単に署名集めではない。大きな目標を掲げている。そんなことは、知ったものでもないのだが、一旦関わったこととなると、その目標の達成が少しでも進んでいくことに関心が生まれるし、喜びが生まれる。
Jリーグの応援と同じで、漠然とした応援よりも、ファンクラブにでも入れば、一回一回の試合の状況がきになるだろう。そういう所属感や一体感が形成される。
自分が熱心に関わればなおさらなので、ここにいつの間にか、はじめは自分のものではない活動の目標に自分自身が結び合わされていく。

自分が熱心に関わったことは、必ず正当化する。これが間違ったものであるはずはないと。こういう心理作戦は、見事に個人個人を教団の論理の中に必敗込んでいく仕掛けなのだ。


「オウム真理教」を考える 〜 なぜカルトに?①

当時、統一協会とともにいわゆる「隔離型」とも呼ばれる心身宗教の典型の一つがオウムだった。信者となる中で、熱心な求道は、やがて家族をはじめ一般的な社会生活から完全に隔離された教団内での生活に出家する道をとる。事件となってわかったことだったが、優秀な人材が多数出家していたのには本当に驚かされた。

人はなぜカルト✳︎に引き込まれるのか。
巧みな心理作戦がそこにある。
私自身もまだ10代の終わりの頃に、カルトの勧誘の入り口に立ったことがある(もう、40年も前だ〜、びっくり)。何かの企業の意識調査みたいなもののインタビューを装い接近されたが、これは、もはや古い。今なら、スマホなどを使い、出会い系などは使わなくても、SNSを使って、特定の人に近づくことは比較的容易だもの。
しかし、とりあえず私の経験と当時のやり方を紹介しておこう。
インタビューで、応えると色々な特典があると餌に誘導されて、自分の関心に沿って質問が繰り返される。色々な分野での質問がなされてきて、いつの間にか、自分が終わり近くに招待を受ける。例えば、平和について関心があるといえば、その勉強会とか、何かの学習会や抗議集会。文学だったり映画だったりすれば、作品を読んで、見ての批評会のようなもの。関心が高いとすでに答えている自分の言葉に沿った勧誘は断りにくくなる。関心があるなら、これに参加することはいいことでしょう?という心理を掴む。それでも、無理強いはしない。断らせるのが相手の手段の一つだ。断らせることによって、負い目を負わせる。その負い目を狙って、当時は電話攻撃が始まる。インタビューのはじめに、色々な特典をもらうのに住所や電話番号さえも教えるという愚かさがこの勧誘を現実のものにする。これに巻き込まれると、断り続けるのが難しい。
はじめは、向こうのスケジュールでのお誘い。これは予定が合わないと上手に断るが、断るときにこちらは「関心はあるが、申し訳ないです」と、言い続けると、「とんでもない、勝手なスケジュールでのお誘いですから」、と引っ込むのだ。
ところが、これを2回くらい続けると、向こうがかえって申し訳なかったといって、せっかく関心を持ってくださっている、あなたの都合に合わせたいと。少し上の幹部の方に話したら、素晴らしい人材だとか言われたのだとか、ぜひ会いたいとか、一緒に学びたいとか。そういう話をして、こちらの自尊心をくすぐりながら、迫ってくる。
こうなると、こちらの予定に合わせるとなると、これは断りづらいのだ。そうして、ここで、堤防が壊れて一度でもいくとなると、これは向こうの見事な誘導にハマっていくことになる。

今時なら、最初に書いたように個人情報を無理に聞き出す必要がないかもしれない。皆SNSを通じて個人に直接接近することが可能なのだ。しかし、要領は同様。関心に沿った誘い、断らせて負い目を負わせる。同時に、相手に伝わっているこちらの情報と個人的なコンタクトから、組織の上の人の感心が示されるという自尊心のくすぐり。負い目を利用しながら断りづらいこちら優先の誘いがくる。

今時なら、就活や転職などとの絡みは絶好の餌となろう。現実への不満が解消される道が何か自分を引き上げるステップアップとしての可能性に見えるから。そこに漬け込むうまい話には気をつけることだ。


✳︎カルト:本来の言葉の意味では、カルトという言葉にはこの宗教団体の善悪を判断するような言葉ではない。しかし、ここで使う場合には一般に言われるような、その活動に犯罪性また反社会性を感じさせることが強く、どちらかといえば一般社会に対しては隔離・閉鎖がたの共同性をもつ宗教団体というような意味で用いている。


「オウム真理教」を考える 

オウム真理教の教祖、麻原彰晃こと松本智津夫と当時の教団幹部7名が、裁判によって確定していた死刑判決に基づいて、その刑が執行されたことが報道された。

死刑・・・ということが解決なのかと、そのことも大きな問いではあるが、また、なぜこのような執行の仕方なのかという疑問もあるのだけれど…

改めて、あのテロ事件を思い起こす。

1995年の3月20日。地下鉄サリン事件は、13人が死亡、6000人以上の大勢の犠牲者を出したということばかりではなく、組織的に企てられたテロ事件であって、その計画実行を行なっていった人々の存在が、私たちの非常に身近な存在であったことも大きなショックだった。また、この事件後の捜査や逮捕に続いて諸々の事件が明るみに出て、松本サリンや堤弁護士一家殺害など多くの凶悪犯罪がこの教団の仕業であると解明された。連日の教団関係の報道で、出てくるあの教団の幹部として名を連ねていたのは、私とほぼ同世代。おそらく、信者の殆どは、ほんのその数年前まではごく普通の市民生活を送っていたものであっただろう。受けてきた教育のレベルも高く、医者や科学者、弁護士、IT関係の技術者、多種多様な業種のエリートたちだったことは、私だけではなく、多くの人たちを驚かせたに違いない。

何が、彼らをあの狂信的なカルト教団へと駆り立てたのだったか。
洗脳、マインドコントロール。おそらくは、単純な心理的操作なのだけれど、それでも、その単純な道筋になぜ人は引き込まれたのか。
人々は何を求めていたのだろうか。私の関心は80年代から90年代へと移行する時代の中の私たちの心の有り様だ。しかも、その時代に20代後半から30代前半を生きていた私たちの問題なのだ。高度経済成長を子ども時代に過ごして、右肩上がりの世界を自分たちの将来に重ねていたのかもしれないが、次第に将来への不安が大きくなっていった時代でもあったように思う。ノストラダムスの予言を信じてはいなかったと思うけれど、世紀末に向かって行くあの時代の閉塞感や不安感が一つの背景でもあっただろうか。

心の時代、宗教の時代ということが80年代の終わりにはよく言われたものだった。某新聞社にはそうしたコラム欄があったことは印象的だ。何かを求める漠然とした時代。




あの教団そのものが、訴えたのは、現代を生きる「虚しさ」「空虚感」だったという。当時の勧誘パンフレットに載ったある女性信徒の入信のきっかけには、まさに当時のエリートOLが、経済的に、物質的に恵まれ、それなりの友人関係にも不自由のない生活でありながら、漠然と持つ「虚しさ」があったこと。それが埋められたのは、教団の教えだったと記されていた。

本当に教団が埋め合わせるものであり得たのかはわからないけれども、当時の人々の一定のスピリチュアルニーズの状況をよくあらわしているといえるだろう。時代の行きづまり感は、個人的な宗教性の開発へと向かったし、ある種の神秘主義的傾向を持っていただろう。西山茂氏や島薗進氏らが「新新宗教」と呼んで、70年代以降の宗教ブームを捉えているが、背後には、おそらく欧米のニューエイジの動きが影響を与えていたという。「精神世界」への関心が高まり、それが消費ニーズとなって高まりを見せる。霊能、オカルトの類を含みこみながら、哲学と宗教の広がりの中に、気功、ヨガ、神秘主義、タオイズム、アロマ、占い、運命学などを求める人々はやはり時代の子なのだ。

折しも、ベルリンの東西の壁が崩れていくのを目の当たりにしたのが、この時代だ。かつて自分たちよりも少し上の先輩たちがマルクス主義に傾倒して様々な学生運動にエネルギーを注いだようには、自分たちは生きてこなかったノンポリ・三無主義を自覚していても、冷静にあの偉大なイデオロギーの末路を感じて、自分たちの生きる現実を変える理想を持ち得なくなったことにぼんやりとした喪失感を持っていたようにも思う。

自分の死と生の意味やこの世界の向かうべき姿を描いてみせたあの教団、いや麻原のカリスマが、もしかしたら自分たちを大きく変えていく希望に映ったのだろうか。本当は、麻原自身の生育歴に落とした影が、多くの人を巻き込むような闇を作り出すことに過ぎなかったとしても。闇を光に錯覚させる仕掛けが、この時代に用意されていたということかもしれない。

宗教の意味やその恐ろしさも含めて、日本では宗教教育がなされてこなかったことも、こうした教団の教えへの批判的な眼差しを持ち得なかった原因であろうか。

しかし、より深刻なことは、そうした人々の心に、既存の各宗教は何も訴える力を持ち合わせていなかったということだ。確かな言葉を紡いで、私たちの心に響く生きる力を与えるのに、何が足りないのだろうか。あの時から、ずっとその課題を宿題としてきたのではないだろうか。
あの頃、すでに牧師となっていた自分は、同世代に何を伝えていたのかと、忸怩たる思いになる。
たとえ、マークシート方式で正解を選び取ることに飼いならされた世代であったとしても、丁寧な言葉が訴える力を持てないはずはない。
今を生きる私たち一人ひとりの深い魂の問題に、しっかりと向かい合う、そういう神学の言葉を鍛えていくべき時だと思っている。







2018-06-27

ポスト「宗教改革500」を 生きる教会

 今年、宗教改革500年をおえてあらたな歩みが始まる。そのことを自覚的に取り組もうとする教会が多い。
 日本福音ルーテル教会が日本のカトリック教会と共同で記念の時を刻むことが出来たことは、決してあたりまえのことではない。欧米では多くのところでこの記念を同じように過ごしたところもあるが、宗教改革という歴史を持たないアジアの地域で、この取り組みは今ひとつ自覚的な取り組みになりにくかっただろう。日本では、1984年から両教会の対話委員会が開かれてきていて、洗礼の相互承認も共同での翻訳や出版活動などを行ってきていた。そういう背景の中、欧米でやっているからとか、大きな記念の年だからというのではなく、なぜこのことに取り組むのか、何を目的とするか。そうしたことを丁寧に話し合いながら成し遂げたものだった。
 つまり、こうした歩みはルーテルとカトリックの両教会が単に仲良くなろうというということではなく、現代世界への福音宣教のためということがはっきりと確認されてきたことだった。
 だとしたら、その記念は決して過ぎてしまえばそれで終わりということではなく、新たな教会の歩みのスタートとなるべきものだろう。もちろん、カトリックとの間での話し合いからさらなる共同・協働などについてもこれから新しい歩みが始まっていくだろう。けれども、やはり自らをどのような教会としていくのか。そのことへの取り組みが是非とも必要。


各地域、また教会でも、そのことを自覚した学びがなされてきている。
私も、このテーマでは今年二回目の講演となる。学びを重ね、また各地域での考えや実践を丁寧につくりあげていくこと、情報を共有することなどとても大切なことと考える。
 近く、この宗教改革500年の取り組みの全体の報告書、日本福音ルーテル教会の東教区ビジョンセンターでの連続講演会の記録なども出来上がってくる。こうしたものを改めて学びながら、これからのわたしたちキリスト教会、ルーテル教会の歩みを宣教の脈絡のなかで豊かに味わい、造り出していくものでありたいのだ。
 


沖縄「慰霊の日」に

6・23 沖縄 慰霊の日

今年(2018年)、この記念式に沖縄に住む一人の中学生の作った詩が、本人によって朗読された。
この記念日に、私たちが何を心にとめるのかということを、これほどまでにすなおに表現された感性に出会って、本当に嬉しかったし、心打たれた。

自分の「今・ここ」で生きる、その当たり前が、どんなに尊いか。その当たり前を本当に当たり前とすることの責任は、誰のものでもなく、私たち自身が何を選び取り、生きていくのかということにかかっている。その当たり前を感じる感性。それを生きる歓び、あるいは切なさ。悲しみも辛さもしっかりと感じること。そして、その日常の中に何が隠されているのか、深く視る知性。社会と歴史の痛みは、人間の生活に刻まれたものだ。それをしっかりと見つめる勇気。その上で、自分の「今・ここ」を明日の世界へとつなげていく決意。

こういう若い方がいる。そう思うだけで、私たちが大人として、「今・ここ」をどのようなものとして残そうとするのか。その責任を重く感じる。
憲法の問題、教育の責任、原発の課題。今、何を論じ、何を決めて行こうというのか。
私たちは、何を決意するのか。

https://twitter.com/motomotom141/status/1011225109346914304

全文を、ここに記録しておきたい。

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平和の詩「生きる」    沖縄県浦添市立港川中学校 3年 相良倫子

私は、生きている。
マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、
心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、
草の匂いを鼻孔に感じ、
遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。
 
私は今、生きている。
 
私の生きるこの島は、
何と美しい島だろう。
青く輝く海、
岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、
山羊の嘶き、
小川のせせらぎ、
畑に続く小道、
萌え出づる山の緑、
優しい三線の響き、
照りつける太陽の光。
 
私はなんと美しい島に、
生まれ育ったのだろう。
 
ありったけの私の感覚器で、感受性で、
島を感じる。心がじわりと熱くなる。
 
私はこの瞬間を、生きている。
 
この瞬間の素晴らしさが
この瞬間の愛おしさが
今と言う安らぎとなり
私の中に広がりゆく。
 
たまらなく込み上げるこの気持ちを
どう表現しよう。
大切な今よ
かけがえのない今よ
私の生きる、この今よ。
 
七十三年前、
私の愛する島が、死の島と化したあの日。
小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。
優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。
青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。
草の匂いは死臭で濁り、
光り輝いていた海の水面は、
戦艦で埋め尽くされた。
火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、
燃えつくされた民家、火薬の匂い。
着弾に揺れる大地。血に染まった海。
魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。
阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。
 
みんな、生きていたのだ。
私と何も変わらない、
懸命に生きる命だったのだ。
彼らの人生を、それぞれの未来を。
疑うことなく、思い描いていたんだ。
家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。
仕事があった。生きがいがあった。
日々の小さな幸せを喜んだ。手をとり合って生きてきた、私と同じ、人間だった。
それなのに。
壊されて、奪われた。
生きた時代が違う。ただ、それだけで。
無辜の命を。あたり前に生きていた、あの日々を。
 
摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。
悲しくて、忘れることのできない、この島の全て。
私は手を強く握り、誓う。
奪われた命に想いを馳せて、
心から、誓う。
 
私が生きている限り、
こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。
もう二度と過去を未来にしないこと。
全ての人間が、国境を越え、人種を越え、宗教を越え、あらゆる利害を越えて、平和である世界を目指すこと。
生きる事、命を大切にできることを、
誰からも侵されない世界を創ること。
平和を創造する努力を、厭わないことを。
 
あなたも、感じるだろう。
この島の美しさを。
あなたも、知っているだろう。
この島の悲しみを。
そして、あなたも、
私と同じこの瞬間(とき)を
一緒に生きているのだ。
 
今を一緒に、生きているのだ。
 
だから、きっとわかるはずなんだ。
戦争の無意味さを。本当の平和を。
頭じゃなくて、その心で。
戦力という愚かな力を持つことで、
得られる平和など、本当は無いことを。
平和とは、あたり前に生きること。
その命を精一杯輝かせて生きることだということを。
 
私は、今を生きている。
みんなと一緒に。
そして、これからも生きていく。
一日一日を大切に。
平和を想って。平和を祈って。
なぜなら、未来は、
この瞬間の延長線上にあるからだ。
つまり、未来は、今なんだ。
 
大好きな、私の島。
誇り高き、みんなの島。
そして、この島に生きる、すべての命。
私と共に今を生きる、私の友。私の家族。
 
これからも、共に生きてゆこう。
この青に囲まれた美しい故郷から。
真の平和を発進しよう。
一人一人が立ち上がって、
みんなで未来を歩んでいこう。
 
摩文仁の丘の風に吹かれ、
私の命が鳴っている。
過去と現在、未来の共鳴。
鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。
命よ響け。生きゆく未来に。
私は今を、生きていく。

2018-05-17

DV(ドメスティックバイオレンス)からの回復

「ドメスティックバイオレンスからの回復」
上記をテーマにして、日本福音ルーテル教会東教区社会部とルーテル・医療と宗教の会の共催で、講演会が行われる。
  日時は、この5月26日(土曜日)13:30〜15:30
  会場は、日本福音ルーテル東京教会

ドメスティック=「家庭内の」という意味だけれど、夫婦、家族の関係ばかりではなく、恋人同士など親密な関係のなかで行われ、また繰り返される暴力の問題だ。関係性そのものにおける力による支配で、身体的暴力とは限らない。ことばや態度そのものによって、心理的にも深く傷つける行為。ハラスメントの一種といってもよいのだけれど、親密な関係における日常化した経験は、その被害を深刻なものとしていると言えるだろう。
 大切にしたい関係性に生きているが故に、それが暴力的な被害にあっていることだという認識も持ちにくいし、誰かに訴えることも出来にくい。またその関係の外からは介入することも難しい。暴力を正当化する如何なる理由もあり得ないのだけれど、被害者本人は、暴力の原因を自分の問題であるかのように思い込む。思い込まされているといってもよいだろうか。発作的な行為の場合もあるし、またその行為そのものを行った本人が深く反省し、謝罪のことばだって述べられることもある。だから、その行為そのものについては、何となくゆるしてしまって、それが家族というものと、その親密さを証明するものであるかのようにさえ思ってしまうばあいもある。
 しかし、行為は繰り返される。加害者も被害者もこうした関係のなかでは、本当の信頼ある人間関係をいきることが困難になっているのに、それに気がつかないまま、自分たちの人格が深く痛んでしまう。
 いのちの尊厳を、まもること、大切にすること。起こっている関係のなかから、どのように立ち直っていくことができるのか。
 おそらく、講演者自身の体験も含みながら、じっさいの支援活動のなかから語り出されることばにまなぶことは多いはず。
 ぜひ、ご参加を。

ご案内は、下記のURLに
https://jelc-higashi.org/event/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%AB%E5%8C%BB%E7%99%82%E3%81%A8%E5%AE%97%E6%95%99%E3%81%AE%E4%BC%9A%E3%80%80%E5%85%AC%E9%96%8B%E8%AC%9B%E6%BC%94%E4%BC%9A%E3%80%80dv%EF%BC%88%E3%83%89%E3%83%A1%E3%82%B9/

 


2018-05-06

クリスチャンのための終活セミナー

今年は、この手のテーマでお話しする機会が増えます。「終活」「死生観」。
今回は墓地委員会での講演会なので、講演の主題「復活信仰と埋葬」です。


 日本人にとっての「葬」、特に死者供養、遺骨やお墓についての思いを掘り下げつつ、キリスト者がどのようにその思いに向かい合うのか。近年は、直葬や家族葬などの新しい葬のカタチも見出されます。教会の学びや対応、説明はまだまだ十分ではありません。
この時をきっかけに、皆さんの学びと備えが少しずつでも進められると良いと思うのです。

     日時:2018年6月17日午後3時から4時半
     場所:日本福音ルーテル聖パウロ教会

     主催:日本福音ルーテル教会 東教区 墓地委員会

2018-05-05

2018 牧師のためのルターセミナー

日本ルーテル神学校のルター研究所では、
今年も「牧師のためのルターセミナー」を開催する。


 今年は、「500年からの出発」(ポスト・R500)をテーマにこれからのわたしたちの神学と教会について学びを深める。
 いろいろな意味で時代は大きな節目を迎えている。社会も教会も、新しい時代の波に飲み込まれそうになっていて、大きな問いの只中にある。
 宗教改革500年とは一体何であったか。そして、カトリックとルター派のエキュメニカルな交わりは何を意味し、これからのキリスト教界(日本)はどのような役割を生きるのか。今だからこそ、深く問い直していきたいのだ。
 「わたしたちのこれから」をどのように造り、生きていくのか。何について取り組んで、何を次の世代に引き継いでいくのか。共に集って、本音で語り合いたい。

 日程:2018年6月4日(月)〜6日(水)
 場所:東山荘

 今年は所員の発表ばかりでなく、むしろ牧会の現場でルターに学んできた牧師たち、また卒業して間もない若手牧師の卒論の取り組みなども共有していくプログラムを用意している。今、わたしたちは何を問題としているのか、なにをどのようなことばによって語るのか。ざっくばらんに、しかし、牧師としての時代を生きる責任と悩みの中で、今ルター神学を問い直していきたいのだ。

 今まで、足が遠のいていた先生方にも是非ご参加いただきたい。

参加申し込みは、ルター研究所の以下のメールアドレスに。

Luther-studies@luther.ac.jp 

(氏名、所属教会、連絡方法を明記して申し込んで欲しい。)