2009-12-16

提唱 「いのち学」

 キリスト教学科では来年度から「いのち学」を提唱し、関連科目を整理して、カリキュラムを整えることとした。「キリスト教学」という広い学問領域の中に新しい道筋をつけて、研究活動と教育を新たに展開していくことをねらいとしている。
 1980年代ごろから90年代にかけて、ホスピスや終末期医療、あるいは脳死と臓器移植など最先端の医療の現場で向かい合う「死」の問題が多く論じられるようになり、それと同時に日本人の死生観ということに注目が集まるようになった。それから、五木寛之の「大河の一滴」がベストセラーになったり、「葉っぱのフレディー」という絵本がとりあげられたり、最近では「千の風になって」という歌が多くの人々の心に、それとなく自分たちの「死」や「死後の問題」について考えるきっかけを与えたといってよい。昨年(08年)の直木賞作品『悼む人』、また米アカデミー賞の外国語映画賞受賞の「おくりびと」なども、現代の「生と死」に対する深い問いが作品のテーマになっている。いずれも、日常的な人間の「死」を受け止めてきた伝統的な共同社会が崩壊した現代社会の孤独な私たちが、新しく「死」の問題に向かい合いながら、生きることを問い直す深い求めが潜在的な主題であることを考えさせられるものだ。つまり、「死といのち」について問い直したいというニーズが非常に高くなってきているということだと思う。
 従来なら、いわゆる「宗教」がこうした問題に対する答えを提示してきた。しかし、具体的な宗教世界に入るのとは違った形で、「死といのち」を問うていきたいという現代のニーズがあることは確かといえよう。
こうした二ーズに対して、私たちは、「キリスト教学科」こそが、これに応えていく材料も力も、責任もあるのではないかという自覚を新たにし、「いのち学」の新しいカリキュラムを提供することにした。
 すでに開講されていた関連科目に加え、新たにいくつかの科目を用意し、次のような科目を開講する。


①「人間・いのち・世界I」石居    
②「人間・いのち・世界II」石居   
③「いのち学序説」石居
④「食といのちと環境I」上村
⑤「食といのちと環境II」上村
⑥「キリスト教と生命倫理」江藤
⑦「キリスト教と環境倫理」江藤
⑧「福音書におけるいのち」ブランキー
⑨「いのちのキリスト教史」マッケンジー
⑩「キリスト教倫理I」江藤
⑪「キリスト教倫理II」江藤
⑫「神化の教理と永遠の命」鈴木
⑬「スピリチュアリティーと聖書の伝統」江藤
⑭「死生学I」石居
⑮「死生学II」石居
  

隔年開講等も含めてこの15科目ほどをまず用意できるとよいと考えている。
このテーマを神学諸科のインターディシプリナリな取り組みの中で、さらに研究をすすめ、プログラムとして提供していきたい。

2009-12-09

書評「神の仮面」

江口再起著「神の仮面」


神の仮面―ルターと現代世界

これも、「本のひろば」に掲載されたもの。

近年、ルター関連の著作が相次いで出版されてきている。政治・経済・社会的に不安定で、心理的・精神的にも大きな危機を迎える中世末期に、ドイツの片田舎で個人的な試練を体験した一人の修道士ルターは、その深い信仰の思索において、時代の人々が当然としてきた教会の伝統に対し決然と立ち向かって宗教的確信を貫いた。聖書に示されたキリストによる救いへの信仰に基づいて彼は教会の改革を呼びかけたが、それがもたらした改革のうねりは政治・文化・教育など広範な影響を与えることになった。それが新しい時代、近代へと向かう大きな歩みを形作ることになったのである。ルターの宗教改革は、混迷する現代の私たちに、時代の問題性を明らかにし、新しい時代を切り開く神学的思索の重要性と有効性を教える。
本書は、その意味で、いわゆる歴史研究としてのルター研究ではなく、まさに神学的思索が時代をとらえる、ルター的神学の醍醐味を表すものだと言えよう。

著者の江口再起氏は、現在は大学で教鞭をとり、キリスト教関連科目を担当されているが、もともとルーテル教会の牧師である。私が牧師の按手を受けた20年ほど前には、所属の教区行政にも責任を持たれていた。教会の現状と将来に対する鋭い彼の分析は、希望的観測というよりもかなり厳しい内容であったからか、悲観論者とも評された。しかし、統計的資料にも基づいた客観性に裏付けられた分析は、20年経つとそれらのほとんどが、ほぼ正確に現実となっていることがわかる。江口氏の冷静に現実を見据える視点は、その神学の取り組みにおいても基本的に変わらない。独特の着眼と発想をもって、現代世界の諸相に切り込む思索と論述には、思わず読者をうならせるものがある。かつて訪れた書斎には、神学・哲学・思想を中心とした洋の東西の著作家の著作、全集が揃えられ、蔵書の多さはおそらく類を見ないものであったことを記憶する。彼の知識と見分の広さを物語るが、それが氏の著作を下支えする。

一方で「良心」、「義認論」、「二王国論」、「神の仮面」、「隠された神」、「キリスト者の自由」、「罪」、「救済」、「生と死」など、いわゆるルター神学のカギとなるような伝統的な神学概念を取り上げつつ、他方では「グローバル・ヴィレッジ」、「ポストモダン」、「アウシュヴィッツ」と「ヒロシマ・ナガサキ」、「デス・エデュケーション」、「スピリチュアリティー」や「サカキバラ事件」など現代世界をとらえる様々なタームを手繰り寄せて、それらを切り結び、大胆かつ自由に思索し、確かに世界と時代を浮き彫りにする。ある意味で、我々が人間の中に自明的に期待してきたであろう良心とか正義への感覚とか、罪の意識などという観念が、すでに意味をなさなくなりつつある今日の現実を見据えつつ、そこに神の関わりをどう見出すのか。ルターの著作・資料にもあたり、また、豊富な神学と哲学の思想を用いつつ、丁寧になされる論述は説得力を持ち、その論理的展開の妙味は読む者を引き寄せる。

現代において我々が神学するということがどういうことであるのか。単に信仰の教理と教会の事柄にのみ専心するのではなく、現代の世界、時代の課題に向かい合い、それに応えていく神学が求められている。それは時代のニーズに合わせる祭司的な営みというばかりではなく、また、むしろ時代を問う預言者的営みでもあろう。神の存在も人間の信仰も前提に出来ない現代の世界に生きる我々が、なお、「神の前」に立つということの意味を問う神学の課題と可能性を、本書によって改めて考えさせられる。

福音への深い信頼の故に、ペシミスティックにも見える江口氏の洞察の奥には、徹底したオプティミズムが流れているのであろう。深い問いの只中に立ちつくしつつも、なおキリスト教信仰に確かな手掛かりを感じさせる叙述には安心感を覚える。本書のような取り組みは、まさにそうした現代の神学的思索の一つの試みだと言えるだろう。

江口氏は、私が神学生の時代から、ルター研究所の研究会や講演などで接することの多かった牧師先生のひとりだった。神学や教会はどういうチャレンジの中にあるかということについて私が教えられた神学者の一人でもある。

2009-11-30

「いのちの倫理と宗教」

ルーテル学院のコミュニティー人材養成センターを通して、本学のそれぞれの学科が、地域の人々、特に専門職にある人たちに向けてキャリア・アップのためのプログラムを提供している。
キリスト教学科では、医療や福祉などの現場で「死」という避けることのできない課題と向かい合う人たちに、死にゆく人と向かい合うということが、どういうことであるのか、ともに学び、考えていただこうと、今回の企画を試みた。

企画は、次のとおり。

http://docs.google.com/View?id=dhbtdn5z_12q8d82cfz

今回は、真言宗の僧侶にもお話しを伺うことができて、なかなか興味深いプログラムになったとおもうのだが、実は企画の初日、私がインフルエンザにかかってしまい、急遽予定を変更することになった。申し訳ない。
それでも、なんとかスケジュールは調整できた。
福祉の現場からの参加が多少多かったが、養護の施設、教育の現場、ホスピスで働いていらっしゃる方などいろいろな方たちが熱心に参加してくださっている。

2009-10-09

書評「神学とキリスト教学」

神学とキリスト教学―その今日的な可能性を問う

「本のひろば」にも掲載したが、この本について少し記しておきたい。

書名には「神学」と「キリスト教学」という二つの学問名が記されて、その学問の今日的可能性を探る内容と推察される。しかし、「はじめに」にあるように、本書が第一義的に「神学」を問うことを目的としたものであり、その問いの中で日本にあって独自の展開をしてきた「キリスト教学」の研究領域もしくは方法が、「神学」の新しい展開の可能性の要となること表す内容となっている。日本基督教学会関東支部、日本組織神学会、および聖学院組織神学研究センターが共催で今年(2009年)の3月に行ったシンポジューム「それは何であるのか―神学とは」における神代真砂実氏、川島堅二氏、西原廉太氏、深井智朗氏の発題と、司会の森本あんり氏のコメントを新たに論文の形にまとめたものである。

テーマは、ハイデガーが1955年におこなった講演「それは何であるか―哲学とは」のタイトルをもじったものである。哲学が「それは何であるか」という存在者の本質を問う学問であるとされているが、その哲学を哲学たらしめるもの、つまり、哲学そのものの基盤を問い返す奥深い講演である。だとすれば、このシンポジュームもまた、「神学」が「キリスト教学」とか「宗教学」との関係でどういう領域と方法論をもって区別されるか、ということを単に論じるのではなく、むしろ、そうした問いを超えて、「神学する」とは何かと、その基盤を問い返すものであったといえよう。それぞれの名で呼ばれる学問の領域で、論者たちが自ら何を、今、問う者であると自覚しているのか、「神学は何をするのか」という問いへの格闘がここに展開するのである。

神代氏は、「教会のための神学」といういわゆる伝統的神学の立場を確認しながら、その神学がどのようにその周りの他の世界に出会っていくのかというより広範なコンテキストとの関わりをキリスト教学、キリスト教文化学の研究領域の役割と位置付け、神学の公開性を論じる。川島氏は従来の宗教学の方法論に疑問を提出しながら、その社会的な役割として宗教の危険性を見抜く「予防学」的な働きを提起している。オーム事件において、果たし得なかった責任への自覚に基づいた議論を展開する。西原氏は、「キリスト教学」が日本的文脈の中で語られてきた歴史経緯をたどりつつ、「西欧的神学の自明性」のない(失った)ところでの、キリスト教の存在意義をより広い視野の中で明らかにしていく課題を見据えている。「キリスト教学」が新しい「神学」の枠組みを提示するものであるとみている。深井氏は、1900年前後にみられる「教会的神学」に対する「学問的神学」もしくは「文化科学としての神学」の運動は、本来対立的なものではなく、むしろ、教会がもつ公共性へと積極的にその神学の責任的領域を広げていく取り組みであることを論じ、「公共の神学」の必要を説く。森本氏は、こうした議論を受け、それに対する的確な批評を加えつつ、神学をする主体の実存的立ち位置の問題と、また信仰の枠組みの外にある人々との問いの共有における神学の可能性に一言する。いずれも、今自分たちが置かれているところで、「神学するということは何か」を真摯に問うものである。 
今日、いわゆるポスト・コロニアルの時代に、それぞれの地域・民族によって営まれてきた異なる文化・宗教のコンテキストの中で、キリスト教がどのようにその福音を分かち合えるのか。その答え方が福音内容をさえ規定してしまうような問いの中に神学は立っている。神学は単に教会に仕えるというばかりではなく、その教会が置かれている文脈そのものを分析し、説明し、問いかける。あるいは、逆に教会とか信仰、救いや神という言葉が、そもそも何を捉えているのか、それに応えていく責任を神に負っている。

本書を読みながら、ルター派の神学校と大学に身を置き、神学とキリスト教学を同時に担当する私は、「律法と福音」の枠組みや「問いと答え」の相関の方法を持ったティリィッヒ神学の可能性などに思いを巡らしつつ、今、日本の神学が新しい時代を生き始めていることを改めて実感させられている。

2009-09-25

百周年 記念式典



9月23日、日本ルーテル神学校の創立百周年の記念式典と礼拝が行われた。
今から百年前に、日本でルーテル教会がキリスト教の宣教によって神の愛を伝えていくために、日本人の牧師を養成する。そのための神学教育が熊本の地で始められた。1925年に東京の中野区鷺宮に移り、1964年に大学と神学校の体制をつくる。76年にはキリスト教社会福祉コースが設置され、87年に社会福祉学科へと成長する。92年には神学科内にキリスト教とカウンセリングコースがつくられ、これが2005年に臨床心理学科へと発展する。

キリストの与えられる愛と喜びを、具体的に分かち合うために、働き人を養成する。その使命を持って歩んできた百年の歩みを改めて確認することになった。

2009-09-11

マイケル・ルート氏講演

日本ルーテル神学校・ルーテル学院大学の百周年記念で取り組んだ神学の連続公開講演の一つ。

http://www.luther.ac.jp/news/091117/index.html

この9月4日には、アメリカのサザンセミナリーの組織神学の教授、マイケル・ルート氏を迎えた。講演のタイトルは「エキュメニカルな対話におけるルーテル教会とはーこれまでと将来」。
16世紀の宗教改革以来、たくさんの教派に分かれてきたキリスト教会が、唯一の神をキリストにおいて一致して告白することができるようになる祈りとそのための教会一致の働くことをエキュメニズムという。ルターはもちろん、教会の改革を呼びかけたのであって、教会を割ることを求めもしなかったし、願ってもいなかった。しかし、結果はキリストの福音を確かにするための彼の主張が、後にルター派の教会と呼ばれるようになる群れをつくることになった。宗教改革の陣営はまた、その聖餐の理解における異なる立場において一致を保つことが出来なくなった。つまり、ルター派であることは、歴史的にいえばキリストの福音理解において教会を割ることになってもその神学的な主張を守り抜くことであった。
19世紀以来の信仰復興運動が盛り上がり、ヨーロッパの世界進出とともに世界宣教が進められていく時代にエキュメニズムが展開する。二つの世界大戦を経ることで、この教会一致の運動も楽観的な見通しよりもはるかに厳しい現実認識の中で、しかし、また世界へキリストを証する使命を帯びて展開してきた。その一つの頂点が、おそらく礼拝における聖餐の交わりを実現するようにWCCの「信仰と職制」の委員会によって取り組まれたリマ文書(BEM)とリマ式文の完成(1982年)だろう。しかし、それ以後はエキュメニズムといっても大きな進展が見られないと言われ、エキュメニカル冬の時代とさえいわれる。

ルート氏は、しかし、この時代にこそ、ローマ・カトリックとルター派、またルター派とアングリカン・チャーチの間で生まれてきた新しい成果のあることを指摘しながら、この「冬」の喩は正しくないとしながら、むしろ、この困難な時代は、教派を超えた新しい課題にキリスト教会全体が向かい合っていることを自覚しつつ宣教と神学の新しい協力関係を築かれるべきことを訴えた。「和解された多様性における一致」を目指し、教派的な違いをむしろキリスト教世界全体の豊かさとし、ルター派であることをはるかに大きなキリスト教世界の流れの中に位置付けることを意識すべきと説いた。

講演全体は、いずれ出版紹介される予定である。

2009-07-25

ヨアヒム・リングレーベン氏講演

去る7月13日月曜日、ルーテルの創立百周年記念の連続神学講演会が日本福音ルーテル東京教会で開かれた。講師はドイツのゲッティンゲン大学教授ヨアヒム・リングレーベン氏。「ルターの聖餐理解」について、現代的な視点をもって語られた。
ルターのリアル・プレゼンスの聖餐理解を、神の言葉によるリアリティーの問題とするユニークな視点を展開された。神の言葉が「語られる」とき、そこに神的リアリティーが創造されるという。

http://www.luther.ac.jp/news/090818/index.html

難解ではあったが、ポスト・モダンの神学ということを改めて考えさせられた、素晴らしい講演だった。

2009-07-11

救いをキリストにゆだねて

http://febcarchive.seesaa.net/article/122203911.html#more


7月10日に、FEBCの特別番組 今日を問う「今、自殺と向き合う」で自分が担当させていただいた「救いをキリストにゆだねて」 が放送された。
収録はもうしばらく前のことだったが、このテーマはほんとうに重たいテーマだ。型にはまった言葉ではなく、いま、目の前にいる一人ひとりにどのようにしてキリストを伝えることがきるのか。私が立っているのは課題の前ではなく、そこにたたずむ一人ひとり。

神学の学びが、机上のものにならぬように。

改めて 襟を正している。

2009-06-22

ヴォーリズ展




先日までのパナソニックビルに汐留ミュージアムでウィリアム・ヴォーリズ展が開催されていた。メンタム(メンソレータム)の近江兄弟社を設立した人だが、もともとは英語教師として日本にきた宣教師で、琵琶湖畔での彼の活動は日本人に大きな感化を与えたことで知られる。のちに建築家として活躍し、神戸女学院をはじめ多くの学校、教会、病院や郵便局などを設計している。その設計の美しさにも魅了されるが、彼のキリスト者としての生を深く思わされた。
肌の色だけではなく、ことばも文化・宗教もまったく違った世界である日本に来て、その生活と働きを通して多くの日本人の心を魅了したヴォーリズの遺した作品を、日本におけるキリスト教史の大切な一ページとして考えたい。

2009-06-10

セミナー 発表原稿



むせかえるほどの甘い栗の花のにほひ。雨あがりの道にたちこめて、先を急ぐ足をとめる。
不思議と、遠い昔がよみがえってくる予感が胸の奥でうごめいてくる。その瞬間に、何か大きな御手が自分の歩みを包み込んでいるように感じられて、しばらく委ねてみたりする。



さて、先日から、なんとかならないかと悪戦苦闘中だけれども、これでセミナーでの発表原稿が見られるとよいのですが。




http://docs.google.com/View?id=dhbtdn5z_13d9p8pvfh

2009-06-04

牧師のためのルター・セミナー


毎年、6月の初めにルーテル学院大学付属ルター研究所主催で、「牧師のためのルター・セミナー」が開かれている。今年も1日から3日、昨日まで二泊三日で行われた。場所は、長く御殿場で行われてきたが、ここ数年は三浦海岸で行っている。と言っても、二泊三日ほとんど缶詰で研究発表に学ぶので、どこであってもあまり変わらないといえばそうなのだけれども・・・。以前h、もう少しゆったりとしたスケジュールだったが、最近は、みっちりと取り組んでいるので、結構疲れるものだ。でも、缶詰にでもならないと集中した時間を過ごせないのも事実だから、たまには、こういうのもいいなと思う。
今年のセミナーのテーマは「洗礼」だった。昨年08年は「二王国論」だったが、05年が「教会論」06年に「礼拝」、07年に「聖餐」と取り上げてきて、いわゆるルター研究のなかでも教会という脈絡をもって学ぶ傾向は、うちの大学・神学校の付属研究所としてふさわしいあり方ということがいえるだろう。改めて洗礼の恵みについて深く学び、またその実践的課題についても学ぶことができた。自分の研究発表については、後に詳しく紹介することとしたいが、アメリカの福音ルーテル教会が06年に出版した新しい礼拝書のなかに見る洗礼の神学と実践をレポートし、こうした教会の取り組みを生み出したアメリカの教会と社会の現実を分析した。それは、アメリカでの取り組みを何でも日本に取り入れるのではなく、それぞれの社会や文化、宗教的な現実のなかで、何を教会は必要とし、また伝えようとしているのかという実践の総体をとらえなければ、日本の宣教に本当に生かさる神学にも実践にもならないからだ。
写真は、ルターがワルトブルグに幽閉になりながら、聖書の翻訳に取り組んだ場所。ルターは絶えず神学がどんなふうに実践を生み出して行くのかということに心を砕いてきた。その時代にともに生きる人々に神の言葉を伝えることに生きたといってもよい。ルター派の伝統の中で、何を世に伝え、ともに生きていくことができるのか。それがわたしたちの課題だと思っている。

2009-05-29

ルターセミナーについて

毎年6月に行われるルター研究所主催の「牧師のためのルターセミナー」が、今年も三浦で行われる。
今年のテーマは「洗礼」である。
 教団で「聖餐」の問題、とくに陪餐資格の問題が論議をよんでいる(現実には、それぞれの立場に立ったところでの主張がなされているということで、議論できないでいる現実こそが問題なのだが)が、この「聖餐」の議論は本来は「洗礼」の問題と深い関係のなかでこそ問われるべきものだ。ルター研の同じセミナーではすでに2年前に「聖餐」については取り上げてもいるので、今回はこの「洗礼」というもう一つの礼典について深く問い直していくことになったものだ。
 「聖餐論」にしても「洗礼論」にしても、日本のようにキリスト教人口が全人口の1パーセントであるというコンテキストをとらえてこそ、問題として改めて論じられる価値がある。つまり教会が宣教する教会である限り、そこに来る人々にはキリスト教に接することが初めての経験であり、ノンクリスチャンであるということを当然のこととして考えるべきであるのに、教会の神学も実践もそうした経験を遥か千七百年位前、ローマの公認宗教となり、国教となったこととともに失っていった西欧の教会から学び、まねることでしかなかったために、改めて自覚的にこの現実に対する対応の用意がないのに驚いているという状況なのだ。
 その問題は本来、信仰の道筋の中で問われなければならない問題である。だから、当然に長い歴史の中で整えられた信仰の教え、教義的な枠組みのおいて確認されるべきことなのだ。しかし、現代はもうひとつの問題として、人間が長くある種の前提としてア・プリオリに認める神とか信仰とか真理ということばが意味を失ってきているという現代に特有の問題を同時に抱えていることを考えなければならない。つまり、今日改めてキリスト教の教理的な課題をとらえなおすというときの問題の様相をしっかりと分析しとらえなおしていくときにこそ、こうした問題へのとりくみが生き生きとして私たちの信仰の糧となるのだ。
 今年のセミナーのスケジュールは以下の通り。

https://docs.google.com/Doc?docid=0AVbecUkt2EkoZGhidGRuNXpfM2cyNmg4cWdk&hl=en

2009-05-20

やまぼうし



キャンパスのテニスコート脇にある‘やまぼうしの木’。
茂った緑の葉の上に、ひかえめに白い花をつけている。秋に真っ赤なイチゴ色をしたサッカーボールのような実をつけるので、いつごろ花が咲くのかと思っていたら、もういつの間にか白い十字架のような花をつけていた。ウメや桜など春にさく木の花はとうに終わって、‘はなみずき’も終わり、梅の実が膨らんでいる以外は、‘ていかかずら’がにおい、バラが鮮やかな色やアジサイのつぼみの様子などが気になって背の低い所に目が向いていた。うっかり、見逃すところだった。
 神様のめぐみは気がつかないうちに、働くものなのだ。何かに気を取られれば、すでに働いているそのめぐみを見逃してしまう。でも、私たちが見逃しても、神様は何ものも見逃されない。一つひとつに神様のいつくしみが注がれる。
(あなたを見逃しているのでしたら、私を許してください。でも、あなたを決して見逃さないお方がおられることはたしかです。)

2009-05-18

天然空洞木


 アボリジニの民族楽器、ディジュリドゥ。現地の言葉ではイダキという。ユーカリの木の中を白アリが食べた後空洞になっているものを、切り出しただけの筒状の楽器で、切り口に直接口を当て、金管のように唇を振動させて吹く。
 大学の上村先生のご紹介で、この楽器の演奏者が今日の夕方にチャペルで短い演奏を披露してくださった。ちょうど、今日は私の授業でもアボリジニを紹介するビデオを見たところだったので、導きを感じて、同じ時間の授業の学生を皆連れて演奏を聞かせていただいた。演奏者はKNOBと名乗られる日本の方。

http://www.knob-knob.com

アボリジニはオーストラリアの原住民族で、一時期絶滅寸前に追い込まれたが、保護政策などで現代的な生活と伝統とを融合させた独特な文化を今も大事に保っている。
アニミズムかトーテミズムの宗教的世界観が人間と自然との調和を持てるように働く。その宗教の祭りや踊りなどのときに演奏される楽器の一つがイダキである。
 深い息が、万物に宿る霊との交流を現出させるかのように、低く響くときに、神秘的な力強さを聞く者の心に届ける。
 キリスト教の信仰では、神の霊、聖霊はへブル語ではルーアッハ、ギリシャ語ではプネウマと呼ばれ、風とか息ということばとおなじである。そうした目に見えないけれども、確かな力を持つ存在が、いのちの根底にあることを、共通に感じていることなのだろうと思う。
 この楽器が、精霊の響きをただ、空っぽの筒によってもたらすというのは、本当に興味深い。私たちも空っぽになって、はじめて神様の息吹きが新しい響きを持つようになるのかもしれない。
 
 (あなたのいのちが、神様の息吹によって、新しく生かされますように)

2009-05-14

「包括的臨床死生学研究所」と「コミュニティ人材養成センター」


百周年を迎えるうちの大学が、今年新しく二つの事業を開設した。一つは「臨床死生学研究所」、もうひとつは「コミュニティ人材養成センター」。神と人とに仕える働き人の養成を使命としている本学が、人間の根源的な問題としての「死」の問題に取り組むということと、仕える人を育てるという働きを足もとの地域共同体の中で具体的に担っていく事業の展開基盤を作っていくということだ。
 昨日、その創設記念会が開かれた。小さな学内で準備されてきた新しい取り組みは、その都度いろいろな形で報告もされてきたし、自分もその準備の過程で全く関わらなかったわけでもないのだけれども、改めてはじめられた取組みの姿を知って、心打たれるものがあった。自分の大学の取り組みを持ち上げるのは気が引けるが、財政的にも人的資源にも限りがある本学がその持てるものを用いて、なそうとしていることの重要性を改めて考えたことだった。江藤神学校校長が神学校の百年をたどりながら、ルーテル教会が教育と福祉に力を入れてきたこと、その上で一人ひとりのいのちを守り育む使命を担ってきたことわかりやすく示された。このだ学が、その教会の大きなミッション(使命)の中で働き人の養成を担ってきたことを再確認させられた。また、白井幸子教授は臨床死生学についてのプレゼンテーションをされ、このミッションがどんな問題に真向い、取り組もうとしているのかということを深く考えさせられたことだった。すべての人が必ず死と向かい合う。その事実をとらえつつ、すべての人の命、心、生活を支えていくために、机上の学問ではなく、臨床としての研究がなされていくことの深い意義を思わされた。この「包括的臨床死生学研究所」をもつ高い志をどのように実現させていくのかその責任を思うところであった。
 そして、そういう本学の様々な取り組みが新しい地域社会を作っていくために、プログラムをあたらしいかたちで提供しようという「コミュニティ人材養成センター」もぜひ軌道にのせていきたいものである。小さな大学の地道な取り組みが、よき実りを持つように自らの在り方を改めて襟を正して考えている。

2009-05-09

悼む人  ~その2~

私自身はこの小説を小説としておおいに魅力を感じるけれども、静人の「悼み」に全面的に共感するものではない。ただ、深い問題提起がなされているという認識でいる。

静人が、死者を悼む、悼まずにはいられなくなったわけは、実ははっきりとしているわけではない。ただ、いくつかの箇所で静人自身、あるいは母親の巡子の口を通して語られるところから推察されるのである。一番のきっかけは、親友の死を忘れないはずの自分が、一度その命日を忘れたことだと思われる。忘れられないはずだし、そう誓った自分が、実際には忘れてしまった。そのことへの深い罪責意識が働いているのだろう。あるいは、そのほかに思い返すと、祖父の死や身近な人たちの死、幼いころの自分の部屋から見ていたヒヨドリの雛の死。そうした幾つもの「死」との出会いの体験から、彼の「悼み」に向かう初めの動機が生まれている。さっきまで生きられいた「いのち」が失われた。そのことを気にも留めないでいたり、忘れていく自分がいた。それでよいのか、それで生きていけるのかとの思いが静人を悼みへと向かわせた。あまりにナイーブではあるにしろ、誠実な心を感じるし、「死者」を忘れていくこと、過ぎ去ったものとすることは、逆にいえば、自分もまた忘れ去られるという虚しさを肯定することでもある。そのことは、自らが生きていくことを否定することにもつながるともいえるか。

けれど、実際に思えば、身近なところでの死との出会いと、全然見も知らない人の死の問題、その人を悼むということとがそんなにすぐに結びついてくるのだろうかと、不思議でならない。ただ、静人がその「悼み」を重ね、そこでさまざま人と出会うときに、彼の中でまったく新しい使命のようなものが生まれてきているということはあり得る。ただ、静人はこの「悼み」を続けるために、その遺された人々との交わり、共感にも制約を作っている。あまり深くその遺族感情に引き込まれなように距離を保とうとしているのだ。そうでなければ、このような「悼み」を続けられないという静人自身のことも想像に難くない。だから、静人の自己制約には説得力がある。ただ、あまりに自分の感情を押し殺していることが、また、静人の異常なストレスになっていることもよくわかる。
けれども、そうした残されたものとの距離を保つことが、ほんとうに「悼み」という行為を続ける彼自身のなかであり得るのかというところに不自然な印象を残すのは否めない。どうして、何のかかわりもない人のことを悼むことができるというのだろうか。

柳田邦男が、息子の脳死を目の当たりにして過ごした11日間をつづる『犠牲 サクリファイス』という作品がある。

その中で、柳田は「二人称の死」ということを語っている。死一般を語るとき、それは自分とっては誰でもない誰かの死でしかなく、三人称の死を問題にしているという。それに対して、自分自身の死は一人称の死だ。しかし、愛する者の死は、そのどちらでもない、二人称の死。自分にとっての特別なかかわりの中にあるものの死として経験される。柳田はジャーナリスト作家として、脳死を研究し、それを死としてとらえていた。しかし、今その脳死状態にある息子を目の前にして、それを死と認めることができない。「死」を三人称で語ることと二人称で経験することとはまったく違うものだと述懐する。
そのとおりだと思う。愛する者の死であるからこそ、特別なものなのだ。ところが、この「悼む人」で静人はもともと自分にはかかわりのない誰かの死をニュースで知って、その場所に出かけ、その人を悼むという。いうなれば三人称の死を悼むということだ。そして、その人を特別な存在として覚えていくという。その人はどのように特別な人になるのだろうか。二人称の死と三人称の死の中間というのだろうか。三人称の死を、二人称の死として引き込んでいくのだろうか。しかし、ともに生きた関係ではない誰かをそのようにひきこんでくることはどうしてもできないのではないか。
唯一、そこに橋渡しをするものを見つけるならば、その死者の死を二人称の死として受け止めている残された人たちとの交流を通してのみ、その悼みの真実さがうまれよう。けれども、静人はそこにやや冷たいとさえ思われる、線引きをしているようだ。これはいったいどう理解したらよいのか。
静人は、それゆえにか、実際の家族や友人たちにしか許されていない特別な関係とは違う自分の位置というものにこだわっているかのようでさえある。しかし、逆にいえば、本当に身近な存在として生きたものには、その人にしかない特別な死者との関係がある。そこに踏み込んではいけないし、そんなことは他人のすることでもないと認識しているということだろう。そうであれば、なおのこと静人がこの「悼み」をつづける意味、その動機が全く見えなくなるのだ。

ただ、もしかすると、この静人という主人公を通して、忘れられていく死者、その人との本当につながりをもった人たちは、その死者、その人の人生、いや、そのひととのかけがえのない関係、それを忘れてはならないのだというメッセージがしめされているということかもしれない。つまり、静人のような存在を通して、本当に生きている間に深い関係の中にあった死者と、残されたものはいまその関係をどう生きているのかという問いかけをすることこそがこの小説の一つの目的なのかもしれないのだ。そういう問題提起として、実際に読む者のこころを揺さぶることは確かだ。

2009-05-08

ダッハウ



 3月の研究会の参加は、自分にとってのはじめてのドイツ行きの機会でもあって、もし時間さえあればいろいろな場所に行ってみたかったのだが、大学の新年度も始まってしまうので十分それもかなわなかった。それでも、せっかくのチャンス、せめて飛行機の着くミュンヘン近郊で尋ねるところはないかと友人に聞くと、それならと紹介されたのがダッハウの強制収容所だった。
 ナチズムのユダヤ人迫害についてはたくさんの本があるし、自分もフランクルの『夜と霧』をはじめ何冊かの本でよく知っていたから、ぜひ訪れてみたいと考えていたところだった。強制収容所といえばアウシュヴィッツはあまりに有名だが、ダッハウは各地に作られたキャンプの初めの一つで、これがいわばモデルになったという場所。ミュンヘンからは電車とバスで小一時間というところだろうか。写真はその収容所の入口である。かつては、ここまで鉄道が敷かれ、この入口のところまで貨車でつくと、大勢のユダヤの人たちがすぐにこの扉をくぐらされ、登録と検査を受けてすべての物を奪われて、二度とここから出ることができなかったのだと、そう思うだけで何か重たい空気に包まれる場所だった。折しも雪模様であったから、暗い雲の下に立って心も体も凍えるような時間になった。
 『悼む人』の中に、大勢の人の命がうばわれる戦争の惨劇を経験したジャーナリストが「静人」の悼みを揶揄するような場面があったが、この場所にきて、いったい一人ひとりのいのちを悼むなどということはたしかに不可能だというのが実感される。しかし、同時にここで奪われたいのちにどんな風に向き合うものであり得るのかと問いただされるのもまた事実だ。
 

2009-05-07

『悼む人』

ところで、このドイツ行きの最中、一冊の小説と出会った。昨年の直木賞受賞作品で天童荒太の『悼む人』である。しばらく前に友人から紹介され、気にしていたのだが、このドイツでの研究発表が日本人の死生観を問題にしている以上、今の日本でいったいどんなふうに「死」の問題が描かれているのかということを見ておきたくて、出発の直前一週間もないくらいの時に、近くの本屋まで走って求めたものだ。結局、読み始めたら、論文の仕上げをしながらも片時もこれから目が離せなくなるほどに、惹きつけられることになった。こんなに夢中になって小説を読んだのは久しぶりで、おそらく遠藤周作の『深い河』以来のことだったような気がする。最後はドイツ行きの飛行機の中で読み上げたが、その余韻は11日間の長旅の後まで続いたものだから、この小説の力強さを思わずにはいない。(もっとも、自分自身の関心とダッハウでの体験が重ねられた結果ではあるのだが・・・)

主人公の「静人」が、身近な人ばかりではなく、ニュースや新聞で報じられる「死者」を、それが事件であれ事故であれ、記録しながら、その人の亡くなった場所へ赴いていって「悼む」という行為を繰り返す。こう書いてみても、それが何ともおさまりの悪い、奇妙な行動としてしか書くことができないが、小説のなかでも全くそうで、他人からはさまざまに見られ、また言われることになる。しかし、静人にはそうしないではいられなくなった事情がある。また、小説は、この本人をめぐって、さまざまな人生を生きる人間の姿が浮き彫りにされ、「死」を扱いながらむしろ「生」ということを深く考えさせる内容だといってよい。全体を通し、作者の天童氏は、いわゆる宗教という色合いは極力避けながら、それでも、この「死と生」の問題にむきあう真摯な姿勢をもって、徹底した取材をおそらく重ねながら、じっくりと書き込まれたものだと思う。迫力の筆遣いに、読む者はぐいぐいと引き込まれてしまう。

古くて新しい問題を見事に取り上げて、現代の日本社会のなかにある「死」をめぐるスピリチュアルなニーズを浮き彫りにしていると思う。かつて死は日常の家族の生活の中に必然的におこるものとして受け止められてきたはずだが、現代では、その死はほとんど隠されたものとなっている。しかし、また逆に様々な悲惨な事故や事件によって死はありふれたものともなっている。そういう今私たちが直面している死のあり様は、死者が絶えず忘れ去られていくものでしかないことを否応なく示している。生きていた者が死ぬ。それは当り前のことでもあるけれど、しかし、あまりにも早い生者の社会の時間のなかでその死の重みが受け止められきれないで流されていく。そういう社会は、逆にいえば「生」そのものもほんとうに軽いものになってしまっているのではないか。それが人間の「生と死」なのか。そういう問いかけが通奏低音になっているといえようか。

そして、この小説は、もうひとつ、生きるということの中で本当に必要な「和解」というもうひとつのテーマを持っているように思う。生きることは、その人その人がぎりぎり選び取り、引き受けるたった一つのことが現実となって生きられる以外にないのだが、そこには限界もあれば、人を傷つけないではすませられない問題を抱え込まざるを得ない。傷つけられたものはまた、誰かにその傷を引きうつすかもしれない。そんな生のかなしさは、わかりあえないままに人を分裂させるものでもある。しかし、そうなのか。切り裂かれた関係はもう決して修復されないのか。癒されないのか。しかし、本当に生きること、そして、死にきることのためには、もう一度、この人間関係の深い傷がどこかで抱きしめられなければ、そこにまなざしが注がれなければならないのだと、この作品は語ってくる。



2009-05-06

Motoo Ishii: "Dialogue between Luther’s thought on 'communio sanctorum' and Japanese traditional spirituality"

上記タイトルの私の第二セミナーでの研究発表は、以下のURLから公開されたものにアクセス可能。


http://www.lutheranworld.org/What_We_Do/DTS/TLC_Augsburg/Papers/Ishii.pdf

数年来取り組んできた日本人の死生観とキリスト教信仰の関係を問う課題を、今回はルターの「聖徒の交わり」という概念とのかかわりで論じるという方法をとった。自分なりにはなかなか面白いものになったという自負もある。日本語の論文に書き直して今年度の大学の紀要に載せるつもりでいる。

LWF Theological Consultation in Augsburg


3月25日から31日まで、ドイツのアウグスブルグでルーテル世界連盟主催で神学部門の国際研究会議が開かれた。世界30カ国を超える国々から120名以上もの神学者と教会の代表者が集まった。
今回のテーマは "Theology in the Life of Lutheran Churches" で、もはや西欧社会以上にその宣教と教会の広がりがみられるようになった21世紀のルーテル諸教会が、それぞれ異なる文化や社会、その宗教的な背景をもつ中で、ルター派としての神学をどのように保ち、また展開するのかという課題を取り上げた。これは、ここ数年にわたって取り組んできたLWFの神学・研究部門の取り組みを一度まとめ上げつつ、さらに今後の研究を進めていく足掛かりとするものだったといえよう。
 会議は全体会と分科会とを交互に行う方式で、分科会は4つ。第一は "Interpreting the Bible in a Global Lutheran Communion" 、第二に "Creation, Redemption and Eschatology" 、次に "Worsip and Other Christan Practices"、第四に "The Public Vocation opf Churches in Society" であった。私は第二グループのセミナーに参加した。
 議論は活発に行われ、伝統的な西欧の神学叙述と新しい教会のコンテキストにおける神学的な展開とは時には共鳴しつつも、激しいぶつかり合いも見せるという議場の緊張感はなかなか他の神学研究会では味わうことのできないものだったのではないかと思う。
 とりわけ世俗化した二一世紀の社会と、またアジアやアフリカの文化・宗教を背景にした神学的な取り組み、エコロジカルな危機やエイズなどの現実の問題へ直面した中で、教会が新しい言葉をどのようにそれぞれの教会の会衆とまたその教会の置かれている社会の人々にむけて具体的に語るのかということに真摯な姿勢は、時に哲学的・思弁的な議論に入り込んでいく神学にはげしく問いかけるものであったように思う。

2009-05-05

石居研究室から

キャンパスには、さくらんぼも色づいて、そろそろ春から初夏へと移り変わるころ・・・  
 大学も神学校も新しい年度を迎えて一月が経ち、学生たちも落ち着いて、学びと研究に取り組む季節になったと思う。何より教員として自分こそが少しずつ研究を形にしていかなければと考えているところ。今年3月のドイツで開かれたLWFの神学コンサルテーションに、初めて参加、研究発表の機会を与えられた。大きな学びとなった。そこでの様子を少しづつ整理しておく必要を感じている。また、それ以外にも、日頃の神学的デンケンをメモしたり、あるいは時に自由な思いをつづるなどしてみたいと思いこのブログを利用することにした。
 公開するかどうかは今後考えるとして、当面はあなたのために書きたいと思う。